第二百七十七話 か細い遠方の声
部屋の中は、座曳と、まだぐっすり眠っている結だけ。
忙しいから、と、ガタイの良い少年が出ていった後だ。それは気遣いというものあるが、実際そうでもあった。
もう、この島の置かれている状況は以前とは大きく違っているのだから。
(彼らは彼らで上手くやっていってくれるでしょう。ですから私は私のことに目を向けなくては、ですね。その為には、まずは最初の一歩が大事。旅の準備はしっかりと、です。結が恐らく数日で目を覚まして、船員たちと船の回復を待って、と、最低限そこまでは必要ですね。旅立ちはそれから、です。それまではお世話になるとしましょうか。どれ位掛かるかははっきりしませんけど、船が整うのが一番最後になりそうですかね)
「さて。取り敢えず、船長に連絡、ですかね。結が眠っている今のうちに」
ギシッ。
そろっとベットの淵から腰を上げた。
「――、ということです。で、どうします? 合流できます? それとも引き続き別行動、ですかね? あぁ、そういえば船長たち、今何処にいるんです?」
座曳は船長と通信していた。部屋の中。角。ベットから離れて。事のあらましと伝言の内容を話し終えたところで座曳はそう通信装置越しの船長に尋ねるが、
「……。…………。………………。分からねぇ……」
(えっ……?)
座曳は返ってきた答えに戸惑った。答えを口にするのに躊躇が見られた。つまり、それは、口にしていいかどうか、今の今まで迷ったということだ。恐らく、こちらが尋ねなければ答えなかったか、はぐらかしたに違いない、と座曳は少しばかり動揺した。
座曳として、船長に聞きたいことが沢山あった。この世界の事情に、座曳の知る限り最も精通しているのは船長なのだから。
知っていてはいけない秘密の類、厄い内輪の秘密の類、研究者の秘匿し抱え込んでいる成果、家々の伏せられた事情、失われた筈の世界の歴史の深淵。
聞きたい、では済まない。問い質さなければならないこともある。が、しかし、
(あの船長が、分からない、ときますか……)
その反応は想像していなかった。とても問い質せる状態ではない。不穏だ。通信機の後ろから背景音は聞こえてこない。そこは静寂に包まれた場所、ということだ。そもそも、ケイトは傍にいるのか? 大丈夫な状態で。未だ子供へと退行した状態のままなのか? シュトーレンから借り受けた船に今乗っている状態なのか? 海なのか陸地なのか?
「見たこと無ぇ場所にいるってことは確かだ。計器の一切が働かなくてな。てぇのに、どうしてかこうやって通信が通じているのは奇跡みてぇなもんだと思う。こっちが何かやべぇだなんてよぉ、言っていいかどうか分かんなかったからよ。一応、そっちは一段落ついたようだし、お前としては取り返しのつかないようなことにはならず、目的も達成したって訳だ」
そう。何も言わないのだから。
「だから取り敢えず言うことにした。だが、心配すんな。何とかするさ。お前みたいによぉ。恐らくこっちはそっちほどは大変なことにはならねぇだろうさ」
助けすら、求めない。
その素振りは上手かった。不穏をまるで感じさせなかった。しかし、だからこそ余計に怪しい。あからさまに隠している。そう座曳は分かるようになっていた。
(忘れて……いましたね。船長も、いや、船長ですら、唯凄いだけの一人の人間に過ぎない。自分一人で何でもできる訳じゃない。何でも知っているなんて訳はない。常人より、事情通より、当事者より、よりよく知っていることが多いだけ。知らないときは知らない。分からないときは分からない。いや、そもそも……向こうも何か、変わり、ましたね……。そう言えばそうでした。こちらが船長に電話越しに縋ったときも。らしくなく、完璧ではなかった。完全ではなかった。船長に聞けば何とかなる。その不律文が崩れた。絶対性が崩れた)
「だから心配するな。尤も、いつ抜けられるかは分かったもんじゃねぇがな、ははっ」
(もう、自分の足で立たなければ、ですね)
船長がそう笑ったのを聞いて、座曳は緩んだ気を引き締めたのだった。
「だがなぁ、ここを抜けた後向かう場所はもう決めてある。お前はお前が行くべきところへ行け。ついてはいけねぇが、上手くやってくれ」
(あぁ、切っ先を制されましたか。せめて調査の人員くらいは振り当てようと思ったのですが)
「それでな…―、ガァァ、ガァァ、プゥゥ!」
突然、通信がノイズで途切れる。未だ繋がっているが、雑音しか聞こえない。
「! 船長っ!」
座曳は焦って通信機越しに手に汗握りながら呼びかける。
「ブゥゥ、ブゥゥ、ブゥゥ――、ガァァ、やべぇな。光が、陰ってきた。要点だけ話すから耳かっぽじってよく聞けよっ!」
(はぁ……。復帰しましたか。ですが、言う通り長くは続かないでしょうね)
「はいっ」
座曳がそう返事すると、船長はまくしたてるように一方的に話し始める。
「クーとポー。あいつらは伝言通りのところで待っているだろうぜ。で、お前は海へ沈む手段も浮上する手段も既に持っている。辿りつけるだろうさ。あいつらの事情は、俺が説明するより、見た方が早い。それに、目にするまでは知らねぇ方がいい。知らねぇことがお前らの武器になる。知らねぇってことは、何を知るか、選ぶことだってできるんだからよぉ。それに、今のあいつらなら、お前の欲しい情報を提供してくれるかも知れねぇぜ。何つっても、お前がこれから向かう場所は、―…、ガァァ、ブゥゥゥゥゥゥ、ザァァァァァァ――、っと、何でも無ぇ」
「……」
座曳は沈黙している。嫌な間ができていた。聞き返す権利は与えられているようなものだった。しかし、本当にそれは尋ね返していいことなのか? 何故か座曳は迷っていた。迷って、沈黙して、間は閉じる。音声が聞こえてくる。
「どっちにしろ、俺はそっちには行けねぇ。俺は今回のこと、事情を知り過ぎている。それによぉ、やるべきことほっぽり出して俺を探しに来るなんてバカやるなよ。名指しされてんだろ? それによぉ、お前らまで出られなくなったやかなわねぇからなぁ」
ノイズのせいだろうか? 通信機越しの船長の声には震えや乱れが感じられた。声だけで判断なんてできはしない。それだけを繕うことは至極簡単であるのだから。文脈的にわざとの可能性もある。
だから敢えて、そこについては考えないように座曳は心掛けた。答え合わせできる訳でもないし、分かったからといって何かできる訳でもないのだから。
(釘を刺されましたか。そちらへ向かいます、とはとても言えなくなりましたね。まぁ、船長のことです。何とかしてみせるのでしょう。結果だけは絶対に手繰り寄せてくる人、ですからね。それだけは変わらないでしょうきっと)
座曳は無理やりそう信じ込むことにして、口にしようとした言葉を飲み込む。そして、
「ガァァ、ブゥゥ――、たちは、南洋最大の島、ウルル=カタ=ジュラへ向かう。虹の大蛇に守られた数少ない人の安息の地とされる場所だ。そっちの事情が終わった後、3ヶ月でいい。そこで待っておい…―ザァァ、ザァァ、ぁに、心配無ぇ。あそこは来る物拒まねぇ。邪悪な奴は虹の大蛇に呑まれるって信じられ…―、プツン!」
と、通信はついに大きな音を立てて途切れた。
(本当に、大丈夫、なのでしょうか……。どうしてこんなにも不安なのでしょうか……。しかし、こちらも放り出す訳にはいかない、でしょうね……)
「はぁ……」
座曳は再び結の眠るベットに腰掛け、その寝顔を覗き込みながら大きく溜め息をつく。
ごそっ、ぎゅっ。
「ん? 起きま…―、あぁ、まだぐっすり、ですか」
寝返りを打ってきた結は穏やかな顔をして眠ったまま、座曳がベットについている手を握っていた。
(私ももう少し、休むとしましょうか)
そうして座曳は、靴を脱いで、自身もそのベットに彼女と向かい合うように身を横たわらせるのだった。
(考えても、解消できはしない。仕方がないのですから)
不安は少しばかり和らぎ、すぐにすぅっと眠りについた。
 




