第二百七十三話 心の器と汗黒色のインク
「あはははは、あはあはははは――」
タタンタンタン、タタンタンタン――
踊り狂う音は未だ響いているまま。大きさの変わらない筈のそれは、どうしてかとても小さく遠く聞こえる。
結の助けは決して借りられないし、視界外眼下に存在している相手も、今自分が感じているのと同じように、結を数に入れていない。その上、座曳も気を失って戦闘不能な者の一人としかもう見ていないのだろうと、ガタイのよい少年は察していた。
いつまでこの膠着が続くのか。向こうがいつまでこれを許してくれるのか。凪のような短い猶予でしかないだろうと分かっているからこそ、恐ろしくそれが長く感じられ…―
「そこのお前」
声が、した。
それは、低くもはっきりよく通る威厳のある声。しかし、枯れや濁りはなく、幼くはないが、若い。青年から、大人の成り立て。そんな年頃の具合な声。それに不相応な、無意識に首を垂れてしまいそうな圧ある声。
偉そうで威圧的なそれは、圧迫感があるのに、抵抗する気にはなれない。それのそのような態度が相応しく思う。それにそのような態度が付随しているのは至極当然だと思う。そんな風に、輪郭も捉えられていない相手が、不意に語りかけてきたというのに、何故か受け入れてしまっている。反骨心すら浮かばない。いや、そんな言葉のチョイスが出てしまっている時点で、まるで、屈しているかのよう。
「あぁ、そうだ。お前以外誰がいる? 今まともに対等に意思疎通できる者が。不甲斐無さを、今更自覚した愚か者どもにか? それともあれらの一流気取りの凡庸どもにか? いや、あるまい」
潰した筈のその敵の頭は再生していてるのだろう。明らかに意志持って、こちらを捉えているのだろう。明らかに冷静で、言葉が通じるようで、しかし、こんな状態での第一声がそれ。そもそも、仲間たちの意識を落とされた。
「あの二名を除くとお前がいちばんましだ。そして及第点でもある。なら、許しても良い。見逃すに値するだけの活躍をしたそこの二人とお前を足して、全員を」
あまりにも声がはっきりしていることからして、ダメージは全く残ってなんていない。相手はきっとすぐに立ち上がって動ける状態だろう。頭の再生だけでなく、胸に刺さった座曳の手も引き抜かれているに違いない。座曳と結が危険な札を切ることをそう躊躇しなかった時点で、この展開はあり得ると十分予想できた筈だ。
しかし、声のした方向である下は、向けない。未だ、体はぴくりとも動かない。先ほどまでの多くの仲間たちと同じように。ただ、違うのは、敵の照準が明らかにこちらに向いているということ。
「代償を払えば、だが。そして私が望むものは、」
後悔は遅く、意味はなく、それよりも、先を考えてしまう。
なら――、何をされる? 何を、させられる? 全く以て、読めなかった。なら、当然、恐怖する。まともに思考なんてもうできない。だってそうだろう? 都合良く目を閉じることも、耳を塞ぐことも、感覚を切るように意識を落とすことも、許されはしない、のだから。
唯一自由を許されている呼吸。それすら、止めようと思っても止められない。半ば無意識にそれは、激しく肩で息をするときのようなリズムを刻ませられているから。
(酷い、貧乏籤だ……)
心の中で、やっとぼそり、逃避するように客観視して、ガタイの良い少年が言葉にできたのはそれだった。そんなざまだった。そして、迫る苦痛と苦悩塗れの絶望に、諦めるように覚悟する。が……、
「言伝だ。言伝をお前に頼みたい。ここいるお前たちの誰よりも活躍した、あの二人へ向けての言伝を、次点であり及第点を与えられる唯一のお前に頼みたいのだ」
耳に入ってきた相手の声は、想像だにしないものだった。そこには、敵意の欠片すらない。それは、効き間違いでないとしたら、頼み事だった。状況が状況故に、拒否権のない命令を受けたに等しいが、それを踏まえても、あり得ないくらい、穏当で平和的な言葉だった。意思疎通が可能、そして、向こうがそれを求めてきていると分かるから。
しかし、答えられはしない。情けないくらいに、今は、口先どころか、目線すらちょっと下にずらすことすらできはしないのだから。
「……、あぁ、動けない、か。想定よりも遥かに弱かったということか」
相手は察したようにそう言った。その意味は冒頭以外、全く窺えない。意志疎通が可能な相手と、人の言葉を使った遣り取りが成立しているようで成立していない。相手は一方的で、こちらの言うことを何も聞くつもりなどないのだと、やっと、少年は意味を悟った。
それは、人に対する扱いではない。道具に対する扱いだ。相手はこちらに関心など持ってはいない。どうでもいいのだ。唯の、伝言の為の、書き置きよりは少しは確度の高そうな道具、程度にしか見ていないのだ、と。
「なら……、これで善い、か?」
そう言われた直後、煙が眼前を下から上に通り抜けていった。すると、何故か、感じていた異様な空気の重さが消える。心の震えも、何故か消えた。しかし、それが却って怖かった。相手はこちらをどうとでもできるという意味なのだから。
しかし、よくよく考えてみると、恐ろしいのは当然だ。そして、相手はこちらに興味なんてない。なら、せいぜい、壊されないように振る舞う他ない。それより他に無いのだと、あっさり答えに行きつく。
座曳や結、程ではないにしても、このガタイの良い少年も、子供たちの集団の中で、自然と長の位置に収まる程度の器の大きさはあり、なおかつ、その器には他の子供たちよりも濃密で熱く多めに決意は注がれている。それは、汗黒色のインクのように、泥臭くもよく色残すに違いない。周りの者たちの中で最も。
そう。そうやって道具として使える類の者の中では。
相手はこのガタイの良い少年をそう量った、というだけのことである。ただ、具合のよいインクを選んだだけ。
……。ごくり。
堰き止めらえていたかのような唾が溢れてきたのを飲み込み、目線を下へ下ろすと、そこには、やけに整って細身で、無駄なく引き締まった、人間離れした美しい造形の男が、全裸で仰向けに横たわっていた。
 




