第二百六十六話 どっちだ……?
「はっ……!」
船員のうちの一人が、我に返る。最も早かったその壮年の、歴戦の、船員たちのうちでも古強者の域である彼が、
スッ、コトン。
足元に落とした、瓢箪状のやけに重そうな竹色の錘を吊るした釣り竿を拾い上げつつ、
「みんなぁあああああ! 動けぇえええええ!」
叫び、他の者がそれに反応しても未だ動けないことを理解しつつ、危険を承知で、仕留めるつもりで、
「うぉおおおおおおお!」
グゥオゥゥンンン、ブッアアアアアアアア――
それを振り翳す。大きく真後ろから前方へ弧を描くような軌道で、煙の中のその人影に向かってその錘を頭から砕く勢いでぶつけ…―
ビキッ、ゴッ、ガシュッ! ビキキキ、ベキキキキ、ボキィィィ、ビキビキキキキキキキ、ボキィィィイイイイイイ、ボコォォォォオ! ビッ、ボトッ。
掴まれ……た。右手で。片手だけで。砕ける音と共に。掴んだ側も、ぶつかったそれも、共に、罅割れ、砕けていき、掴んでいた手を割るように抜けて、肘へ、そして、肩へ。そこで、脇で挟むように、激しく砕ける音に、骨と身以外のものが混ざり、ぼとり。その人影の砕け潰れた右型から先。落ちた。そんな音が、響いた。
「なっ……」
最初に復帰し、竿を振るった男は、想定だにしない滅茶苦茶な攻め手の潰され方にさすがに動揺する。そして、その黒い影は、残された左手で、糸を掴み、男を猛烈な力で、まるで、先ほど男が振るった竿の錘と同じように、
ブゥアン、
引き寄せられると共に、
ガシッ! メキキキ、ボゴブシャァァァア、ブチャァアアアアアアアア――、ヌッ、ボチョリ、ブゥアン、ゥウウウウウウウウウウ、ブチョッ! ……。
砕け散った筈の、潰れ、散った、落ちた筈の右手で。落ちた千切れたそれは落ちているのに、それの右型から先は確かに存在していて……。
座曳は、ぞっとしながら、その様子を鮮明に見ていた。
毒の黒紫の煙はとっくに晴れている。それとは別の、灰白色の煙が、その人影から出ている。そして、その人影は、明らかに――
「お、大きく、なっている……再生、している。あぁ、違いない……。違いない、です……」
ぶつり、と呟く。
吐き気なんか、吹っ飛んだ。そんなもの気にしている暇はない。それは明らかに、危険なものだ。これまで出会ってきたモンスターフィッシュの類よりも更に上をいくような。
それでも震えは止まらない。本来、モンスターフィッシュの中でも、主級、特異な個体級の脅威が目の前にあれば、一流のモンスターフィッッシャーであれば、全てを跳ねのけるように、本能が、体を、緊急事態だと、無理やり動かす。
しかし、それすらできない。
現に、他の者は未だ、動けていない。あの声は、威圧だったのだ。その圧に、歴戦の猛者である船員たちですら、一人を除いて、未だ動けていない。その一人は今、頭蓋を鷲掴みにされ、砕かれ、投げ捨てられた。そして、それは、自分ですら同様で。
しかし、それでも、声は出たのだからと、座曳は振り絞る。
(倒れても、いい……。私が倒れても……。未だ、続くのです。でも、ここで、声をあげなければ、皆、終わる。隣には、結がいる。自己犠牲ではない。でも、やるしかない。託すしか、ない。迷っている時間は、無い。次動かれたら、もう、手がない……)
「結ぃぃぃぃっ!」
他の言葉は出なくても、それだけは出た。何でもよかった。少しでも、動くための意識の領域。それをこじ開けられれば。
そうやって、座曳は、声をあげた。
自分にとっての、唯一の魔法の言葉。自分にとっての全て。
無理な駆動をして、未だ数日。短期間に二度続けては命に関わる。それでも、やらない訳には、いかなかった。口にした言葉は覚悟の証。
目を見開く。
息を、殺す。
何故か、煙の中のそれは、こちらへ攻めはこない。背をのぞけるように、動く。頭を片手で抑えるように、苦しみながら、立っている。その体は、明らかな子供に、右手だけ異形のように巨大だったそれから、大人のそれへ、背格好が、全体が、変貌していゆく。筋肉の鎧を纏うように、きっと膨れていっている。
状況はどうしようもないようでいて、未だ、まし。現に、相手は今、隙を見せている。明らかに演技ではない。再生し、成長する、人をベースにしたかのような化け物。そこにクーの気配はない。正真正銘の、化け物。生まれ落ちた、別の何か。これまでと位階の違う、化け物。
だからこそ、完成されると、今度の今度こそ、終わり。
座曳も叫んだというのに、隣の結すら未だ動けそうにない。金縛りにあったかのように、ぴくり、びくり。動こうとしているのに動けない。他も、もっと酷いが、基本的に同様。逃げることすらもうできない。
座曳は、覚悟を決めた。
(とっておきを、使う。知るか、後のことなんか。生き残れなければ、そんなもの、何の意味も無いっ!)
懐に右手を入れる。禁忌に触れる。この都市の、数多ある、負の遺産の一つ。




