第二百五十八話 それが水なら
そう。彼と彼女は似ている。その妙な責任感であったり、罪悪感を感じやすい気質であったり。彼よりも彼らの事情を知っている彼女も、不安を抱えていた。彼らは本来、あっさり彼の旅立ちを容認する筈だったから。そういう風に段取りは済ませてあった。
だが、ここにきてこれだ。そして、そうなるかも知れない可能性を、彼女は彼らの中に見ていた。王が、ある日突然、彼らの紹介をして、その数日後の、彼のこの海域への漸くの接近の報と、自身の記憶の一部の復活。彼らも王も同様に失っていた記憶の一部を取り戻し、その段階で、王が提案してきた道筋の最後に、旅立ちの為の段取りとして、彼に連れていってもらう、いや、彼と共にここから去ることを容認して貰った筈だったのだから。
そして、
ザスッ、ザスッ、ブゥオッ!
彼女は力無く倒れ込むように両膝をつきながら、頭を砂に埋もらせた。それが土下座であることは、頭の横に、彼女の両手がついていたこと。そこから辛うじて判断できた。
彼女は頭を上げない。
もがき苦しむ様子もない。
耐えている。ただただ、耐えている。許しの言葉を手にするまで、きっとずっと、そうしているつもりだ。
それを座曳はもう、起き上がることすらできない状態で、ぷるぷると震えながら、涙を流しながら見ていて、とうとう、動き出す。
這うように動く。砂に体をとられて、満足に進めなくとも、それでも進む。
ザザァ、ザザァ、
たった数歩の距離が、遠い、遠い。
ザザァ、ザザァ、
「……、ぅう、くぅぅぅ……、ぁぁぁ」
声にならない声をあげながら、惨めに進む。
彼らの誰一人、動かない。その様子を、真剣な表情のまま眺めているだけだ。
座曳は今も幻影に苛まれている。ただ、それよりも衝撃的な現実が、そこに重なって、確かに見えただけに過ぎない。そして、その為なら、幻影の中で、指先すらぴくり動かすのがやっとの程度の状態を味わっている最中であっても、動いてしまう。動けてしまう。座曳という人間はそういう人間だった。
彼女が死んでいたらなら、そうではなかっただろう。彼は存在する者。在る者の為に、動く人間だ。たとえ、彼女が死んだと確定したなら、それまで、と彼女が為の生はやめるだろう。そして、別の生き方をするだろう。それが自身の生を放棄することと同義であり、彼という存在の終焉であることは置いておくとして。
ザザァ、ザザァ、ザッ。
到達。しかし、彼女をすぐさま引っ張り出すだけの力は、出せない。だから、
ザズッ、ザァァ、ザァァ、ザァァ、
手を潜らせる。少しずつ。そして、
ザァ、ザニュッ。
触れた。彼女の顔。恐らく頬。そのまま進め、救うように、その口に腕は触れ、さらにその先。越え、反対側の頬へ。そして、そのまま、首方向へ腕をスライド。
(うぅぉぅあぉおおおあおあおああああああああああ!)
「……ぅあぉおおおあおあおああああああああああ!」
込めた力と共に、声が出る。意地だった。力が入るようになった自身の体を起き上がらせると共に、幻影は振り払われ、現実がその目に。共々、砂の帳は消える。
「ごめんなさい。結……。こんな、情けない、男で……」
と、もう片手を彼女の腰の下に回し、抱えるように持ち上げる。
互いに砂に塗れたままであったが、
フッ、ぶちゅう。
そのまま熱く、キスをした。彼らがいる前で、熱く蕩けるような、舌と唾液絡ませるような、砂混じりのキスを。彼が求め、彼女はそれを拒まず、寧ろ、涙混じりに嬉しそうに、受け入れる。
そして、
ツゥゥ、ビトォォォッ!
彼女から舌を離し、口を離す。砂混じりの唾液の糸が、張る。
自身の口側面のそれを、座曳は自身の下で、掬い上げるように取り、飲み込んだ。彼女は彼の胸元で、息を乱しながら、口元から唾を流し、恍惚の表情を浮かべている。
「私は王にはならない。なれない。私は貴方たち全てよりも、彼女一人を絶対に取るからです! 後は勝手にしたらいい。貴方たちの許しなんて関係無く、私はここを去る。その為の手段も方法もある。先ほどの鍵が何か分かりますか?」
そうして、彼、座曳は強い言葉を吐いた。嘯いた。
「あれは、王の象徴ですよ。未だそれは私の手にある。その意味がお分かりですか? そう。私は、王の力を振るうことができる。この、遺失物に溢れた都市の、ね。その中には記憶の操作もある。そして、王の権利も力も、奪うことはできない。儀式の場を用意しない限り。そして、その為には民の数が足りない。外から入れても意味はない。お分かりですよね。もう、詰んでいるんですよ。私が継ぐ継がないは関係無い。もう、終わっているのですから」
そんな強権。そんな卑怯。絶対に使うつもりなんてないのに。そもそも、使える状態であるのかすら分からないのに。鍵を手にしたときに得たのは、追加の遺言のような言葉でしかなく、実利的な意味はなかった。
これはだから、嘘だ。しかし、ある意味において嘘ではない。座曳は本気で演じている。今このときだけは、彼ら全て、制するつもりで言葉を口にしている。
座曳の今の話は穴だらけだ。容易に気付ける。何一つ裏付けなんてない。彼らが王から授けられたものからして、知っていない筈はない。彼らは、座曳が王を選ばないときの保険、数多で一の王の代わり、なのだから。
そして、
「良く言ったぁ! 座曳ぃぃっ!」
茶番は終わる。彼らを代表していた、比較的大柄な、腕白なガキ大将染みた、ガタイのいい少年が、そう言って近づいてきて、
ザッザッザッ。
ポンポン。
座曳の肩を叩いて。
座曳は彼女を抱えたまま、そのままみっともなく泣き始めた。彼女もそれにつられて泣き始め、彼らも連鎖するように泣き始めた。
そこに悲しみは、何一つない。今だけは。
よかったな、良かった本当に、など、彼らから漏れる声の通り、座曳と結と彼ら、その場の全員の涙は、一堂に喜びにふける、幸せの涙だった。




