第二百四十七話 まどろむ凪の終わり
彼女が大人しく座っていてあげるのを止めれば、すぐさまけりはつくのに、敢えて彼女はそうしなかった。彼女は信じている。彼を、信じている。
嘗てどうしようもなくて一度置いてゆかれても、更にその前に全てを賭してくれたこと。亡失から舞い戻ってきたこと。今度は助け出してくれたこと。
年月を経ても、最初からずっと根元は変わらない、ますます愛おしくなった彼に、付き従うだけでなく、共に隣歩く者として、彼女は彼を信じて、居るのだから。
恐れていたのは、唯、決断の根拠に存在するかも知れない綻び。彼が決断そのものではなく、それに後悔する可能性。それこそが、彼女は何より怖かった。
何処までも、彼と一緒のものに、恐怖していた。 違いは、それを認識していたこと。
だから、考えるよう、整理するよう、理解するよう、促す。だから、彼の出す選択が何であっても、それに最後まで、寄り添う。だから、そう、決断した通り、彼女は、やった。
だから、彼はそれを――
ザァァ、ザァァ――
波の音は変わらない拍子で続いている。彼女の撫でる手はもうすっかり、止まっている。
(私が先ほど目を閉じたのとは、似て非なる行為、ですね。貴方は、私の為だけに待ってくれている、というのではないのですから。私がいつ答えるかなんて関係なく、貴方は待つのでしょう。それが次の瞬間に訪れても、日を跨いでも、一日経っても、一週間後でも、一か月先でも、一年を経ても、待つのでしょう。そして、それを、私の為に待った、とは思わないのでしょう。貴方は唯、決断して、その結果が出るのを待っている。そうやって、頑なに。見届ける、とはそういうこと、です……よね。そこに私の意思なんて関係ない。私は確かに、貴方の分も背負って選択する。結果的にはそう。しかし、貴方と私の決断は、個々に行われるもの。同意へと整えて、揃え、答えとして、重ねる。しかし、それでも私は…―)
「これは、私に残された遺言。私がしなければならないこと。そう。必ず」
狙いすましたかのように、目を瞑ったままの彼女はそう口にして――だから、座曳は思い出す。見せられた光景を。託され、背負うと選択した物を。
(……。そう、ですか……。……。まどろんでいる場合では、無いですね。遺言を手にしていたのは、私だけである筈がない、ですよね。まどろみですら、これまでのここでの全てを侮辱し、放棄する行為。単純な、ことでした。私は、背負っている。そして、そういうとき、私は、私の為だけでなく、背負った全ての為に、前へ、進んできたのでした。はは、何だ。変わらない、じゃないですか。何もかも、御膳立て。遠回りで、甚大な支払いは、結局のところ、私を、完成させるが、為、ですか)
座曳は起き上がらない。しかし、目ははっきりと、開ける。見下ろす彼女を見上げる。目線が合う。
(褒美は、彼女。まさしく、私が望んだ、どうしようもなく諦めそうになった、彼女。えぇ、十分ですとも。足りないなんてある筈ないのです。後は、手繰り寄せる、だけ、ですか。共に歩め、という、御膳立て、ですか? そこだけはえげつないなと、恨みますよ、父上。母上)
心に浮かんだ清濁を飲み込み、微笑みかけると、彼女は目を開き、爽やかな微笑を浮かべていた。それが、言葉にする為の、最後の後押しだった。
すぅぅ、
彼女がそうするように、
はぁぁ、
すぅぅぅぅぅうううう、
息を、吸って、はいて、大きく深く吸って、
すっ。
浮かせた、背と、首、頭。
「他にもっと聞きたいこともあるでしょうに。貴方は律儀です。私はあなた程、そうでは在れないですよ」
急に近づけた顔。息の掛かる距離。そんな距離で、微笑むでも気取るでもなく、普段通り平静に、座曳はそうやって、彼女に言葉を囁くように吹き掛けた。
驚き、顔を少し赤らめた、誤認した彼女。
続いて、大人びた微笑を、すっと浮かべてみせた。目をゆっくりと瞑るようにしながら顔を傾けて、そのまま、彼女の口元へと、自身の口元を――
彼女は更に強く誤認し、真っ赤になり――
ドッ。
彼を思わず突き飛ばす。
ブッ。
後ろ向きに頭から、さらりとした砂へ、受け身も取らず勢いよく倒れ込んだ座曳。
「あっ……、ご、ごめんなさい……」
スッ、ザッザッザッ。
取り乱しながら立ち上がって、申し訳なさそうに、砂に頭から後ろ向きに倒れこんだ座曳へと両膝へそれぞれの側の掌を置き、首を前に、上体を突き出すようにして、上からその様子を伺った。
「……、だ、大丈夫……?」
と申し訳なさそうに心配そうに彼女が言い、さらに顔を近づけようとしたところで、
ズッ、バサッ!
突如起き上がる。彼女はびっくりしつつも、尻餅なんかはつかず、
ザッ。
後ろへ、一歩分程度、下がった。
「ブフッ、プッ」
上体を起こして座った座曳は、口の中に入った砂と唾液の混合物を脇に吐き捨てて、
ザッ、バサバサバサ。
顔と髪の毛の泥を払い、言った。
「辛気臭いのは止めましょう、結。おっと、私のせい、でしたね。こちらこそすみません」
今度は笑顔で。勿論今度は、起き上がったときの顔が彼女の顔のすぐ傍、だなんてことはない。ちょうどよい、座っている者と中腰な者との、近く、自然な距離。
彼女に手を差し出した。掴んで引っ張り起こしてくれ、と言わんばかりに。
彼女は片手を口元に当てて、ふふっ、と笑い、もう片手で、座曳の手を握り、引き起こす。それに合わせて立ち上がる座曳。真っ直ぐ立った結。
手は握られたままだ。向かい合うように立っているのに、その手は、恋人繋ぎ。
ザァァ、ザァァ――
波の音が響く。二人は見つめ合う。微笑を浮かべて。互いを真っ直ぐ、ただ、見ている。彼女はその手を放そうとしない。座曳も、放すよう促すどころが、嫌がりも煩わしいという素振りも困った顔も見せない。
未だ、昼の海岸。
ザァァ、ザァァ――
日差しの強さからも、波の間隔と大きさからも、時間は殆ど、経っていない。
「結。では、始めましょうか」
切り出したのは、当然の如く、座曳。
彼女はそれに、こくり、と穏やかな微笑を浮かべたまま頷いた。
そうやって、らしく、始めた。迷いは晴れて、広くなった視野。繊細な注意力。だからこその、らしい言葉。らしいやり方。
彼にとって、まどろみは平穏で、彼女にとってまどろみは不安だった。
そして、もうそれらは共に、晴れ、残された最後の答え合わせが、漸く、始まる。




