第二百四十五話 膝の上のまどろみ 後編
大きなことをしようとしている途中の、きれいな区切り。それは、どうしようもない誘惑。そこまでであっても、一部目的は達した、と言える。そこまでであっても、最初とは雲泥の差。
悲しいことに、人は、安易に流れる。強い意思を持っているように見えた座曳ではあったが、それは、異常者の域には達していない。彼の心は、ただ、優れただけの、所詮、人の域。
しかし、幸にも不幸にも、彼女は、違った。
彼女は立ち上がることなく、すぅっと、膝の上の彼の頭に手を、伸ばし、
さすっ。
触れた。撫でる、ように。
さす。
なぞるように、何度も、
さすっ、さすっ、――
撫で続けながら、口を、開く。
「駄目よ、座曳」
母親が子供を聡すような、穏やかで優しい、しかし、意志の籠もった声で。
(……。あぁ、私は……立ち止まってしまおうと、していたのですね……。)
ぴくりと開きそうになった目を、座曳は強く、瞑り、気付かされた。無意識で消極的な逃避と停滞へと自身が流されようとしていたことを。
ザァァ、ザァァァ――
すうっ、さすり、さすり、――
座曳はまどろむ。まどろんでいることを望む。もう少しだけ、と、だだをこねる子供のように。波の音と、撫で手と膝上の柔らかで包み込まれるような感触と暖かな温度。得られる筈のなかった、奇跡のような、彼女を体感していたい。重みを熱を、実在を、こうやって彼女が生きて存在してくれて、自身の傍に寄り添ってくれていることを、いつまでも、感じていたい。
そう思ってしまったら、もう、ここで歩みを止めてしまってもいいのではないか、それが何か悪いことなのか、これ以上の欲は、再喪への、破滅への、誘いでしかない。ここで、止まるべきだ。ここが、至福だ。ここが、頂だ。先に見える理想の最大値は幻想でしかない。
なら、立ち止まるべきだ。夢見て、彼女をその手から、取り零すのか? きっとそれは、前とは違い、決定的で、覆せないものになる。もしかしたら、すら、望めなくなる。
何より――失ったら、二度と、戻ってなんて、こない……。
そして、喪失の絶望感は、もう――知っている……。
ぎゅぅぅ。
目を、強く瞑る。そんなつもりなんてなかったのに。急に怖くなった。体は、震えを止められない。今こうやって、彼女の実体を、感じているからこそ、その喪失というもしもは、限りなく鮮明に思い浮かべられるから。
ザァァ、ザァァ――
波立つ海。上の空洞からの光で照らされる昼のこの海岸。触覚は温覚は、砂のそれ。海の水のそれ。そこに、穏やかな暖かさはない。何に体を預けても、安息は、無い。前は、向けない。純然に、自分が為だけに前を向いたことなんて無いのだから。そうするつもりすら無いのだから。
座曳という男は、自身の奥底から来る、自身一人で完結する欲求というものが、存在しない。彼は、常に、自分以外の他ありきで生きていた。
生まれて物心ついたその時から、既に見究める目と判断力を持っていた彼は、不幸にもふと、気付いてしまった。
彼の育ての父と母。それは、彼の実の両親ではない。そんな彼の育ての親。彼らを含む、都市の全ての大人たちには、記憶の処理によって、彼の育ての親と彼の産みの親は当然のように同一、と思っていた。思い込んでいた。限りなくはっきりと。
しかし。違和感というものは存在する。意識に上ってくる程のものではない。しかし、感覚が、それを訴える。そして、確かに存在するそれは、行動の些細なところに、ほんの僅かに顔を出す。
彼の精神の骨子に、それは無意識に、しかし、確かに、始まりの疑問は、刻み込まれている。
触れる手の、叱る言葉の、見えない違和感による躊躇と停滞という、瞬間としか言えない程度の、誤差のような、距離。無意識が止める、動き。自分に伸びる母親の手の、自分に向けられる父親の言葉の、空白の時間。他の子供たちへその親が向けるそれらには無い、一瞬のであるが確かな、間隙。
自分と両親の間にだけあるそれに、彼は、他との違いを、違和感を、何処かしら、感じた。感じたということすら知覚していないような、一抹の、不安。涙すらしなかった程の、ほんの些細な、無意識の、不安。
そして、ある日、彼は、意味も理解もせずとも、無意識に、感じた。結論は刻まれた。
自身にふと遭遇した、一人の大人の男。光に包まれた屋外。顔は光に紛れて、顔は口元だけがうっすらと。その男から、自身へと伸びた手と言葉。そこには、無意識の間隙は、無かった。それは、他の子供たちへの撫でる手と向けた言葉と同じような、間隙無き、行為だった。
彼の関心はそうして、無意識のうちに、その男に向けられるようになった。後に、自身の真の父親だと判明する大人。この都市の王であり、彼女の運命を闇へと漬けた、信頼と安堵を預けるには程遠い存在。恨むべき、憎むべき、裁くべき、間違った存在。
彼の不自然な程な叛意は、彼女と、自身を生んだ父親。彼が関心を持っていたたった二人だけの人間であるその二人からできていたが故の、その身すら灰にするような自滅願望染みた、憤怒だった。
彼は、それにきっと、一生気付かない。たとえ、彼女に指摘されようとも、きっと、認識することなんて、できない。
座曳という人間は、普通の人間の性質を持って生まれた。故に、その歪な環境に、歪な傷をつけられた、という至極当然のような結果が残った、というだけ。




