第二百四十三話 彼女と彼の願いの話 後編
スッ、ギュッ、プゥゥゥ、カチン。スッ、カチッ。ザッ、スギュッ、スギュッ。
と、彼女が再び着衣したところで、
「そろそろ、続き、いいでしょうか」
そう尋ねてみる。が、
「そのつもりよ。お願い」
あまりにもあっけなく、悪びれもせず、飄々と返されて、さしもの座曳もあっけにとられた。
「ふぅ。では、気を取り直して。結。呪いを、解きましょう。私と貴方の身に残る、半ば残ったままの呪いを。そうして、互いの望みを、叶えましょう」
「ふぅ~ん。貴方の望みは、何なの座曳?」
そう、微笑するでもなく、真顔で、彼女はそう尋ねる。座曳はそんな彼女の目を、見た。よぉく、よぉく、見た。瞳の奥を、覗き込むように。彼女が目を、逸らす。その前に一瞬、彼女の目の奥に憂いが見えた。
「長い旅で、よぉく、身に沁みましたことがあるんです。どうやら、私は、独りだとてんで駄目なんですよ。走れない。走り切れない。すぐに息切れするんですよ、私という人間は。そして時折、どうしようもなく無理をして、酸欠で倒れます。分かっていてもどうしようもないんです」
敢えて回りくどく言う座曳。しかしそれは、己が考えの道筋をなぞるように示すため。彼女もそれを分かっている。だから、ここで『意味が分からないわ!』だとか、『そんなこと聞いてるんじゃないの!』だなんて言わない。そもそも、そういうことを言うどころか、思ってしまうような類であれば、座曳という人間と合う筈がない。水と油だ。決して混ざり合わない。
「私の望みは、貴方が為に。しかしそれは、他ならぬ私自身の為、なんですよ。私は独りでは不十分な人間であるのに、隣に立つ類は選ぶんですよ。広い世界を巡り回った、貴方の代わりすら探していたかも知れないこれまでの旅路。唯の一人も、隣にいてくれて、気を張らなくて、自分を偽り繕わなくて、いい、と思える相手は、同性異性共に、いませんでした」
酷いことを口にしている自覚。昔と違って、座曳は、それが分かるようになっていたから。それでも、醜い逃避の本心を見せる。曝け出す。彼女も自身も、互いに互いの思い浮かべていることくらいは自然と読める。しかし、その酷さを反芻するように、増幅するように、強調するように、敢えて口にする。
「……いる筈が、無いんですよ……。私は心底、その意味は知らずとも、ずっと昔に、心を決めていたのですから。貴方、だけなんですよ。結。あの砂浜での、他が通り過ぎてゆく中の、貴方だけが、あのときからずっと変わらず、私の安息、寄る辺、なんですよ。諦められる筈なんて、なかった。だから、乗せられたとはいえ、他の誰かの為なら、こんなところまで、絶対に私は来なかった。決して乗せられはしなかった」
そして、弱音混じりの本心が、心の底からあふれ出す。泣く資格なんて無いのに、涙はとりとめもなく流れる。
「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くす。旧い言葉です。きっと、私と同じように、昔の貴方も、意味解せず、しかし素敵なものだと憶えた言葉。そして、共に呪い解いたその時、他ならぬ貴方と、この約束を、結ばせてください。そして、共に願いを、叶えましょう」
それは、古い言葉。旧い言い回し。由来すら忘れ去られた。しかし、その文言と、意味だけは残る。幼き頃、この都市のいつかの何処かで共に知った言葉。
「えぇ。座……曳。ありが……とう……」
泣き崩れる彼女。彼女はずっと、責を感じ続けていた。だから、言葉にして貰って、やっと、心底許してもらえていたのだと、心の奥に、響いたから。
愛を、欲を向けられる存在ではないのだと、何処か諦めていたから。その証が先ほどの触れての確認だったから。
一見、許したかのように見えて、彼が心の何処かで、憎悪を、自身に対して持っているのではないかという疑念をこの今まで拭えなかったからだ。彼の約束された栄光の運命に折り目をつけたのだ。恨まれていない訳などあるまい。そう思っていたから。
心の奥底、無意識までは読めない。しかし、そんな無意識も、相手の立派な感情。それは、ぶれぬ、本心の化身。
だから、彼が心の奥底でそもそも最初から恨んでなどなくて、それどころか、自身を求めてくれていたことを知ることができたのなら、彼女にもう、致命的な負い目はない。
「私も……貴方でないと……どうしようも……無く……駄目だから」
何処までも似通った、お似合いな二人は、そうして、前へ、歩き出す。新たな夢と共に。
「ちょっと、外に出ない?」
そう、目元を少しばかり赤く染めた、未だ目を潤ませた彼女が言う。
「いいですねぇ。少し、体の調子を整えなくてはいけないようですし。私、一体何日寝てたんでしょうか? 三日位、ですかねぇ?」
座曳が、壁に手を当てながら、ひくつく足でゆっくり立ち上がりながら彼女に尋ねる。
「あら、気付いていたの?」
彼女はそう首を傾げる。座曳に手を貸しはしない。分かっているから。座曳が、わざわざ声を掛けてこず、敢えて自分で立ち上がったのは、自身の具合を確かめる目的があったことを。
「そりゃ、気付くでしょう。体の寝違い感。寝疲れによる、横になっていて体重の掛かる部位への痛み。その程度と、力の入らなさから、大体のところは分かりますよ。旅の途中、無理は相当しましたからね」
そう座曳は嘯く。軽い感じで言っているが、割と体に余裕は無かった。超過駆動による、両足の疲労。それは取れ切っていなかった。立ち上がって、立つ姿勢を保つということを先ほどまでしていなかったから目立たなかっただけのことである。
「大丈夫?」
首を傾げながら、彼女は心配そうに言う。それでも手を貸そうとはしない。あくまで座曳の意思を尊重する。それが別に、手を貸さなくては非常に不味い状況ではない限り。それが、彼女のスタンス。傍にいる。けれど、過保護にはならない。べったりと依存気味にくっついたりもしない。精神的には依存要素たっぷりではあるがそれは横に置いておくとして。
「えぇ。それより、何か食べたい、ですねぇ。結。砂浜、行きましょうか。あの崖の上からだったら、釣り、座ったままでもできるでしょう」
と、見せられた景色のそれと、記憶のそれを重ね合わせて補完した、高い崖のあるあの砂浜の光景を思い浮かべながら、座曳はのそり、とだが歩き出した。




