第二百四十話 ここから始めればいい
……。
…………。
………………。
…、ぱちり。しかし、光に目が眩み、
ぎゅっ。
座曳は再び目を閉じる。が、
「おはよう、座曳」
それは、柔らかで、暖かな、彼女の声だった。その声のした方へと振り向いて、ゆっくりと目を開ける。
「……、」
白い光で塗り潰された背景。そこに、浮かぶ輪郭。小さな輪郭。そして、
「あぁ――、」
見えてくる。それは、紛うことなき彼女の姿だ。ベットで横たわる自身の顔を覗き込むように中腰な、結・紫晶だけが、そこにはいた。
「おはようございます、結」
微笑を浮かべる、子供の時と変わらぬ彼女の姿。顔全体としては幼さを如実に残しているのに、目つきは大人の女性の、上品で余裕のあるそれ。くるっとした紫色の睫毛に縁取られた、ピンク混じりの紫の虹彩。そんな目に加えて、その見下ろすような目つきが、より、彼女を大人っぽく見せる。
くるっと大きいようで、しかし、切れ長気味であり、釣り目な彼女。それ以外は子供らしい顔のパーツ、だというのに、それに相反するような、目。子供らしくも、大人っぽさを持っていた、決してその目を冷たく睨み付けることには使わなかった彼女のそんなところが、座曳は好きだった。
そんな彼女の小さな瓜状の、整った顔だけは避けるようにして、身体の節々に付着するように癒着するように癒合するように残っている、各部位の紫水晶。
紫色のロングスカートを着て、素足かつ裸足で、上は白地に黒い大柄の水玉模様の、首元と袖元が絞られた半袖シャツを着ていた。だから、下半身の水晶の占める率は定かではない。
露出している足先から脛の途中までの範囲は、足の指先や、踝など、要するに端に水晶の占める率が高い風になっているらしい、少なくとも表面に見える範囲では。
そして、上半身。手はその両方が、共に殆ど完全に水晶のままだった。左手右手の薬指と、右手の一刺し指だけが、それの例外であり、生身であるようだった。
顔は免れているとはいえ、その周囲は上にも下にも、裏にも、水晶はひしめいている。髪の毛は、半ば水晶のまま。それでも、逆に言えば、半分程度は、艶がありしなやかな毛として、存在している、ということだ。彼女は敢えて、そうしたのだろうと座曳は、思う。
肩に掛からない程に短く、しかし、眉は半ば見える程度に長く。毛束を服数作り、流し、立て、とんがらせる、という程ではないが、立てて。これまでとは随分違う、髪型だった。彼女がしなさそうな髪型だった。ボーイッシュで、コケティッシュで、ビビッドで、パンクロックな、鳥のように逆立てきった、とはいわないが、重力に負けない範囲で立てた髪型。
きっと、浮かんだ印象のうちの、最後。ロック。それが、彼女の意図だろう、と座曳は思う。
もう、待っているだけ、見ているだけ、何もできないで、何もしないでいるなんてことは、もうしない、という意図の現れだろう、と、割と何でも形から入るという彼女の性質をすっかり思い出していた座曳は、結論付けた。
そして、敢えて、その髪型のことを口にしたりはしない。表面的にしかし素直に、『愛らしくも凛とした君にはそういうのも似合うらしいね』だとか、『反骨的でも何処か上品だね』だとか言うつもりはない。『それが君の決意か』などと、見透かしたように、むやみに言葉にしたりなんかもしない。
彼女は、敢えて、声でなく、そういう形で示してくれたのだ、と汲み取っているから。理解しているから。
「……」
「……」
二人とも言葉を発さず、見つめ続けている。
街の、都市の、何処か建物の中。周囲は静まりかえっている。周りに人はいない。静まりかえっている。物音は二人のいる範囲では響かない。二人を除く他の者たちは街の端、船着き場にいる。敢えて、二人っきりにされている。彼女は知っていて、彼は知らない。
そんな二人。
二人とも、互いを見るのは本当に久々のことだった。もうその機会は無いかも知れないととっくに覚悟していた。それでも何処か、諦めているようで、諦めきってはいられないでいた。
そこで、こうやって、唯、互いを静かに見つめるだけになる、二人。約束されていたかのようにお似合いだった。二人の在り様はとてもよく、似通っていた。
彼は、彼女を見る。見つめる。見続ける。それは、至上の褒美でありつつ、掴み取ったかけがえのないものでありつつ、遅きに失した、嘗て過った、罪とどうしようもない結果の名残でもあった。
首は、まるで、首輪でもついているかのように、一周ぐるりと、一繋ぎの円形で角ばった結晶が張りついている。巻くようにこびりつきつつ、ところどころ、突き出る針のように尖っていた。短くではあるが棘を生やして。それが首元になることを意識することを忘れてしまえば、そう大怪我にはならなくとも、切り傷刺し傷は免れないだろう。
しかし、そんなところどころの水晶よりもずっと目につくものがあった。それは彼女の現在の肌の色。色鉛筆の肌色をベースにして、その上にオレンジ、黒、紫、と重ね塗ったかのような全体的に紫掛からせたかのような、毒々しい色合いをしていた。それは、痣や斑の類では決してなく、元からの肌がそういう風な色合いだったかのように見えている。
それこそが、まさに、呪いは未だ、彼女の身に残っているという言い逃れようのない証拠、なのだから。
(……)
微笑むことなんて、できやしなかった。そんな結論が出てしまっては、もう、とても……。嘘のように繕って、薄っぺらくとも、彼女が為に演じてやることすら、できなかった。
座曳は、上がらない拳を、力無く握りしめる。自傷すらできやしない。過去のその失敗は、その、どうしても挽回したかった失敗は、どうしようもなく、残り続けるのだ、尾を引き続けるのだ、と、
かくっ。
もたげる、首。とうとう、彼女に顔を合わせていられなくなった。もう、危機も去った。だからこそ、気を張ることもできない。本来、彼は、そんなに器用な人間では無いのだから。
「そんな顔しないで頂戴」
包まれる。
精神的にも、物理的にも。彼女は、座曳の頭を抱え、胸元を押し当てるように、被さるように、昔も今も、変わらず、泣きべそな弱気な彼、座曳を抱きしめるのだ。
「貴方は昔から、そうだった。けれど、いいの。もう、いいの。これすらも、善い思い出だった。そう言えるように、今からでも、私たちは、共に、頑張れる、でしょう? 少なくとも私は、貴方と一緒に、頑張りたい、かしら、ねぇ」
言い聞かせるように、諭すように、暖かく、物理的にも精神的にも抱擁する。呪いに掛かる前もその後も、そして、今も、ずっと、彼女のそのような気質に変わりはなかった。
思い出した、ということ。それは、辛いことだけではなかった。
「取り敢えず、月並みだけれども、言葉にしておきましょう。貴方が目を開けたその時に言うべきだった、のでしょうけれど、今更、なのでしょうけれど、」
とくん、とくん、とくん――
聞こえる彼女の鼓動。
「救ってくれて、ありがとう。座曳」
靄が、晴れたような、気が、した。厚く掛かっていた、不安と後悔の靄が。それでよかったのかという拭えない筈の不安が。
(それが聴けて、その熱を、確かさを、感じられて、本当によかった、です)
月並みであるが、かけがえのないそれは――
「諦めきれなくて……よかっ……だで……す……」
「わたくし……も……よぉ……ざ……びき……」
言った彼女と聞いた彼。二人にとっての、区切りの言葉だった。きっと二人は、この時初めて、あのときから憶えているときも憶えていないときも常に背負い続けてきた肩の荷を、下ろすことができた。
彼女の棘は、よれるように柔らかに曲がり、彼を貫かない。二人の気付かぬ間に、呪いはまた少し、解けていた。それはほんの今起こったのか、それとも元々そうなり始めていたのか。定かではないが、どちらでも変わりない。
ぎゅぅぅ――
ぎゅぅぅ――
とくん、とくん、とくん、とくん――
どくん、どくん、どくん、どくん――
足掻きに足掻いた全ては、無駄では、無かったのだ、と。独りよがりではなかったのだ、と。互いが互いに、そう、じっくりじっくり、そう、実感してゆくのだった。




