第二百三十九話 演じる座曳の痩せ我慢、そうして彼はやり切った
座曳は、隠されていたそれに、気付いた。
結・紫晶を睨むその隻眼。その黒目が、二つに割れ、別れていたことに。
(……睨めますよね、それなら。しかし……隠していたということは――後に続く手は、無い可能性が高い、つまり、ここさえ凌げば、いい訳です)
体に鞭打ち、座曳は動き出す。
すっ、スタタッ――
(痩せ我慢に慣れた、船での生。皆と比べると未だ未だですが、それでも、だいぶ、無理が効くように私はなってたみたいですね)
結・紫晶の方へ、ではない。彼女の方へ走り寄っても、何の解決にもならないから。寧ろ、彼女が更に動揺し、重みに耐え切れず崩れるのが早くなるだけだ、と。
ウミヘビの左目側。ウミヘビの死角と化した、座曳の方から見ると右側。弧を描くように、駆ける。走破しなければならない距離は数十メートル。
(息が上がることすら、後回し。そんな無茶。しかし、痩せ我慢であるからこそ、やはり、そう持たないでしょう。苦しい筈なのに、意識すら本来薄れ始める筈なのに、そうなっていないのは、後回しにしているだけ。ここで、決める。見落としはもう、許されない!)
シュッ、
飛んできた尾の、大雑把ではあるが、素早い一撃。
トンッ、クルッ。
それを座曳は、跳び、頭を下に、足を上になるように体を捻り回すようにして、自身の勢いを落とすことなく、珍妙に、しかし完全に、躱す。その一撃が、巻きつく一撃でなく、薙ぎ払う一撃と読み切って。
クルクル、スタッ、スタタタタ――
敢えて、後ろは見ない。たとえ、彼女が重みに耐え切れず下敷きになっても、駆けつけるつもりはない。それでは共倒れ。それに、その程度で、彼女が自滅的に致命傷を負うことになるとは考えにくかったから。せいぜい、重症程度、だろう、と。
優先すべきは、その巨大なウミヘビの始末。解決には、それしかないのだから。
敢えてそう俯瞰していた。敢えて、彼女に比重を掛けなかった。今の座曳はこれ以上なく冷静だった。追い詰められ、その上で、状況の判断と行動、そして先読みと、それが逸れた際の別の可能性の配慮。
理詰め。
それができている限り、座曳は、決して、他の船員にも、船長や少年にも、劣らない。
「頂きますよ、その片目も」
わざと、そう言葉にする。
それが、人の声を言葉を認識するのだとすれば、そう――その、高く聳えた頭は下を、向く。
腰の予備のナイフを抜き、巻きつける時間は無いのと、敵がそろそろ慣れて対処してくる頃という考えから、敢えてそのまま、
スッ――
投げる。
案の定反応してきたウミヘビの尾は、
ドゴォッオオ、バゴォンンンンン、ブゥオオゥウウウウウウウウウウ!
豪快に空を切った。
ヒュゥゥゥ――
ナイフは飛んでゆく。
もう、守るものはない。あれば、あのような雑で、不確実な、尾での防衛行動など取りはしない。しかし、あと、もう一手、いや、二手欲しい、と座曳は更に動いた。
「結ぃいいいっ!」
だから、振り向かず叫ぶ。動けるようになった彼女に、きっと汲み取って貰えると信じて、動くよう促した。
ゴォォオンンンンンンンンン、メキキキキキキキ、バキキキキキキキ、ボゴォオオオオンンンンンンンンンンン、ガラララララララララ、ズゥゥゥウウウウウウウウウウウウウウ、ブゥゥゥウウオオオンンンンンンンンンンンンン――ヒュゥウウウウウウオオオオウウウウウウウウウウウウ、
彼女が砕き抉り持ち上げ投げた、これまでの数倍から数十倍はありそうな、上方向へ放射状に投げられた巨岩がウミヘビに着弾する直前、
カンッ!
ウミヘビの目に直撃する軌道だった筈のそれが、ウミヘビが直前に動いて、目尻付近に当たり、落ちる。
(流石、結、です。これで、)
座曳の目にも、その巨大な影と、巨岩の襲来はしっかり映っていた。もう、このウミヘビには手はない。そう思いつつも、予備のナイフを二本。
(予備案を採用せずとも済みました)
シュッ――
シュッ――
投擲。
ゴォオオオンンンンンンンンンンンン!
ウミヘビが、避けられなかった巨岩に当たる音。頭に当たったそれにより、その巨体は砕け、落ちてゆく岩と共に沈黙し、そこに、
ブチャァアアアアアア!
ブチャァアアアアアア!
二本のナイフ。そのウミヘビの隻眼の二つの瞳孔を、潰した。
ぐらり、ヌタッ、ブウウウウウウウウウウウウウウ、ドゴオオオオンンンンンン!
ヒュウゥウウウウ、ドゴオオオンンンンン!
地面から突き出ていたその巨体の頭側部分と尾側部分が、弛緩し、しなり落ちるように、倒れ、
バキキキキキキキキ――、ブゥオオンンンンン、ボォアアアンンン、ボァアアアアンンンン!
埋もれていた、節々が所々球状に膨らみ、うねりうねった中間部が、姿を現した。
(消化吸収、できていない、ですか。予期せぬ幸運、でしたねぇ。しかし、そろそろ私の痩せ我慢も限界、ですかねぇ……。中の彼らには、目を覚ましたら、一旦ちゃんと、謝らせて貰うとしましょうか。許してもらえるもらえない関わらず、兎に角、そうしたい……もの……です……ね……)
ドタタタタタタタ――
「座曳っ! やっぱり貴方、凄いわ!」
と、全速力で駆けてきた結・紫晶。しかし、もう座曳の目は霞み、見えていない。意識は朦朧とし、飛ぶ寸前。彼女の半ば呪いの解けた姿どころか、その生身の汗の懐かしい匂いどころか、彼女の触れた、生身の掌どころか、その言葉すらはっきり聞き取れはしなかった。
ふらりと崩れ、その体を結・紫晶が支え、それでも、決めていた通り、座曳は言葉を口にする。
「結。未だ、呑まれた船員たちは恐らく生きています。船の彼らを呼び、救出作業、お願いしますね。そして願わくば、謝る機会を与えて…―」
そうして、最後の数文字、尺足らずではあったがやりきって、
(今度は……失敗……せず、遣り遂げ……ましたよ……。それも……ちゃんと……生きて……)
座曳は穏やかに目を閉じた。




