第二百三十一話 ゴールデン・ハーヴェスト ~最後の一房と収穫の鎌~ 前編
「すぅぅ、はぁぁ――。……」
息を大きく吸って、吐いて、座曳は独り、夕焼け色に染まった、稲穂の庭の中心に、立っていた。
(母上……。もう、いません……か……。まるで気配がない……。父上、も……)
気付けばそこに立っていたから。そして、周囲を見渡す。母の姿は当然無く、王の姿は、何処にもなかった。
座曳はその場から動かない。探そうともしない。もう、分かっていたから。この世界を維持する者は消え、終わりが始まったのだ、と。
ヒュゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――、ザァアアアアアアアアアアア――
風が吹き、稲穂が揺れる。座曳にとって、向かい風。座曳だけがそれに逆らうように立っていて、稲穂たちは悉く、風に倒され、揺られる。そんな稲穂の揺れる音に同調するかのように、世界は端から、塵になって、闇に、還ってゆく。
(これは、記憶と思考で織られた世界。記憶というものを抜き取って記録し、方向性を持たせて編集し、再生する世界、とするなら、終わりは、無でなくて、目を瞑ったときのような、闇、なのでしょう、きっと……。手綱から手を放すと、終わらせるまでもなく、勝手に、自然に、終わってゆくのですね……)
座曳は、そんな、夕焼け色に染まった、黄金色の小麦の庭園の、終わるさまを、ただ、眺めていた。
ザァァァァァァアアアアアアアア、グゥオン!
突如、稲穂の揺れる音が、歪み、止まった。
「待っていましたよ、父上」
座曳がそう口を開く。正面には誰もいない。しかし、集まり、背後で凝縮した気配に、座曳は気付いていた。
「ほぅ。……、振り向かぬ、のか?」
尋ねられた。
「えぇ。未だ。それは最後でいいでしょう。それに……、もう、形を保ててなど、いない……のでしょう? 風向きでごまかせるものではありませんよ。止ませて言葉を口にしてしまえば無為ではないですか。声の位置が、先ほどまでよりもだいぶ下ですよ」
故に、迷いつつも、座曳は結局、言葉にした。それが互いに求めているものなのだと信じて。
座曳は、場をよく見ていた。冷静だった。母親の消滅が悲しくない訳ではない。実感が薄いという訳でもない。ただ、心が揺らぎ崩れ落ちてはいないだけだ。
座曳はもう心の整理をつけていた。だから、そんな風に、視野を広く持てていた。思考を張り巡らせられていた。
しかし冷静というものにも幅がある。そこにそれは、冷静とはいっても、辛うじての冷静である。それでも、冷静は冷静。
だから、座曳は、分かってしまった。嘗ては気付かなかったところまで、気付いてしまう。そして、気付いてしまえば、瞬く間に、辛うじての冷静さなんてものは、脆く崩れ落ちる。
そう。こんな、風に。
「もう、崩れぬ、のだな、座曳」
「……」
座曳は沈黙した。
ヒュゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――、ザァアアアアアアアアアアア――。
風が吹き、稲穂が揺れる。
ザァァ。
その音が止まり、座曳は、少し溜めて、結局、口にした。
「……無理、しないでください……。こんなときまで……。もう、そういうのは、止めま……しょうよ……」
涙、声。
【あぁ……】
王は言葉を直接口にすることを止めた。
そうやって、やせ我慢するところ。そんなところが、二人はとても親子らしく、よく、似ていた。
ヒュゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――、ザァアアアアアアアアアアア――。
風が吹き、稲穂が揺れる。
もう、座曳の立つ場所から半径数十メートル以外、闇が広がっているだけだった。夕日も飲まれ、稲穂自体の蓄えていた黄金色の輝きが、周囲を照らす色だった。
【ひとときの解遁。それは、お前に何を齎した? あれがお前に見せたものに、お前は価値を見出せただろうか。……そうか、聞くまでもない、か。それは、よかった。身を削った甲斐もあったという訳だ】
「名前、知ることができました。呼ぶことは、できませんでしたが……、私の名前を、母上手づから付けて下さった私の名前を、呼んで、くれました……」
二人は話し始めた。
『終わりまで、話そう』
どちらもそう口にせず、二人は共に、そうすることを選んだ。
【そう……か。なら、声に、するといい。あれの名前を。我が口からは、それを言葉にすることは、もうできぬ。それは、代価の一つとして、罪の証の一つとして、我の口から永遠に失われた。しかし、耳にすることはできる。だから……、違うな。こう、か。我が息子よ、どうか、お前の母の名を、餞として、口にして欲しい】
座曳は背を向けたまま、少しばかり困惑した。しかし、すぐさまそんな気持ちは掻き消える。この地に再び戻ってきて、見てきたのだから。もう、父に向けて、心に拒絶の壁は無かった。だから、
「届く……のでしょうか……」
口から零れるのは、座曳という人間らしく、結局のところ、不安だ。
【届くとも。きっと。少なくとも、我には届く】
「そう……ですね。では、いきます。すぅぅ、はぁぁぁぁ、すぅぅぅぅぅっ、籠・紡糸ぃぃっっ、母上ぇぇえええええええええええ」
叫び響き渡らせた。
それは、一人分の奇妙な叫びでは決してない。父の分も代わりに言葉にしたが故の、二人分の叫び、なのだから。
ヒュゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――、サァアアアアアアアアアアア――。
風が吹き、稲穂が揺れる。それは少しばかり、暖かく、柔らかだったのかも知れない。




