第二百十九話 メッセージ・スピリット・インサイド ~溶けて、居座り、流れて、~
これまで他の山々を飲み込んでも、形を変えずに進んでいたそれは、豹変、した。
ブチャァンンンンンン、ブゥゥゥゥ、ブゥゥゥゥ、ブゥオゥンンンンンンン、グチュチュチュチュチュ――
これまでだったら、その粘性と弾力性を以て、触れたものに対して、自身を押し付けるようにせり上がり、側面からだけでなく、上側からも折り重なるように。そして、長時間の接触による、跡形もない、溶解。そういう流れだった筈なのに、それは、街の外縁部の家々に触れた途端、自らが溶け崩れるように、潰れ、溶解し、さながら液体のように、流れ出した。
ブシャァァアアアアアアアアアアアアア――
これまでとは違う。弾力性だけでなく粘性も共に失っている。と、なれば、それはこれまでとは違い、水の流れるような速度で……。
ブシャァァアアアアアアアアアアアアア――
噴出音のような音を立てながら、その街の勾配に逆らうように、流れ登ってゆく。埋めてゆく。沈める音も溶かす音も立てない。ただ、流れる音だけだ。激流の音。噴出の音。それが続く限り、この進行は続く。埋没は、占拠は、浸食は、続くのだ。
ブシャァァアアアアアアアアアアアアア――
変わらず、濁流のような音だけだ。溶けゆく音などなく、なすすべなく、大通り、小通り、脇道、路地、階段、坂、家の中、区別などはなく、人々は溶けてゆく。進路上にいれば、在れば、溶かされてゆく。それだけのことだ。触れるというよりも、飲まれる、飲み込まれる。
そして、何故か、人々は微塵も足掻かない。足掻けない。表情は怯えと絶望に満ちているのに、誰一人、断末魔を上げるでもなく、絶望を叫ぶでもなく、他へ退避を促すでもなく、口を開けすらせずに……。
抗うことを諦めたのか、見動き一つ取れないのか。
……、分からない。
何故なら、いつの間にか、母上のいるこの部屋の揺れは収まっている。下界のそれが揺れているかは、濁流の激しさ故にもう分からない。母上の視界の揺れの停止が、果たして、そういう編集なのか、母上に映像を見せた側の意図なのか。
きりがない。そして、足りない。
歯がゆくて仕方が無い。情報の取得の自由がない。直感が働くには、感じ取る情報が、あまりに不足している。私が、せめて、このときの母上のいる場にいて、母上がこのときの母上のいたときの状況を正確に再現できていたならば、全て、分かっただろう、と思う。
それでも私は、考える。考え続ける。母上の意図を。この一連の心象世界は、母上のからの最初で最後の、他ならぬ私へのメッセージ。なら、たとえ何も得られない結果に終わるとしても、自ら投げ出すことだけは、諦めることだけは、したく、なかった。
ブシャァァアアアアアアアアアアアアア――
街の中心から外縁部までの径の半分ほどを、それは浸食しきっていた。この街に到達するまでのように、接触した場所を無作為に溶かすことなく、全て沈めるように横から上から覆い被り包むようでもなく、建物と建物の隙間を埋め、
流体が蠢いているのは、揺れ故なのか、そうではない動力を持つのか、はたまたその両方か。
きっと、最後のが答えに近いのだと私は、思う。両方であるとはいえ、その比率には違いが、偏りが、ある。
ブシャァァアアアアアアアアアアアアア――
視界は動かない。母上は、凝視している。それか、固まっている。目に入れているだけで、気持ちは呑まれているのか、途方ない規模に非現実性を感じているのか。当たっているかどころか、近いか遠いかすら分からない。
この光景が始まる前のメッセージ。そして、始まってからの母上からの何もなさ。だから、私が今すべきことは、これで、合っていると、思う。しかし、見て、考えて、一体、どうしろ、というのだろうか……?
ブシャァァアアアアアアアアアアアアア――
外縁部からかさを増しながらより、上へ、内側へ、浸食は進んでゆく。建造物の形は残ったまま、人とその身に付けていたであろうものと、路傍のあれこれが、飲まれ、溶け消えていた。
揺れでない動力。それが主、だろう。それを登らせているのは、これまでのような弾力性ではなく、高く高く、そして、街に近づくにつれて、厚く厚く、厚みを増していた自身の位置エネルギーだろう。
それをまるで、意思を以てして制御しているかのように、通りを、建物の隙間を、埋めるように走り、登り、流れてゆく。決して、自然の摂理に、物理に、なるようになるのではなく、選択的に、制御して、流れる経路と量を、調節している。
明らかだ。
そもそものところ、この、狭まっていっていた溶解壁のここにきての崩壊自体、異様だ。まるで図ったかのように、街に到達した途端に、そうなった。
それを置いておくとしても、崩壊と共に、崩れ、一瞬で街全体を飲み込む、至極当然の、無機物の、物理現象に従った崩壊、という当然の結果にならなかった?
……。違うのだ。分かっている。最初からそうだった。視界に映るまでその姿を見た訳ではない。姿を見せる前までの行動は、あの揺れ擬きと落下の音以外に、直接得られた情報はない。
しかし。想像することはできる。推測することはできる。迫ることは、できるのだ。
まず、あれの速度。豹変前まで、どうしてあんなにも遅かった? どうして、障害物どころか地形を無視して、一定方向へ進んできつつ、高く聳え、徐々に厚みを増しながら、この街へ向けて収束していった? 物理を無視して。そして、狙ったかのように弾けた。
分かり切っている。こんなものが、自然現象の筈があるまい。唯の無生物な物質による無作為の災害である筈あるまい。
狙いすましてきていた。研ぎ澄ましてきていた。徹底的だ。
どうして、誰も逃げることができていない? 最終的に逃げ場はないとしても、少なくとも、この街にまでは逃げてこれる者がいてもおかしくはないのだ。
人だけでなく動物でも植物でも。何でもいい。何であれ、災害の前の予兆。そういったものを感じ取るか、若しくは、災害を目の前にして、逃げてくる、被害に巻き込まれるのを先延ばしにしようとする者が、そして極一握りの抗いか、自身以外の他者が為の足掻きが、そう……、何かが、いる筈なのだ。ある筈なのだ。しかし……、しかし……。そんなもの、ここでは、まるで……無かった……。




