第二百十三話 メッセージ・スピリット・インサイド ~情混じりの使命~
霞がかった視界が晴れて、それでも視界の主たる母上のいる場所は同じままだった。……。……? 視界が、少しばかり、高い?
『もう、起きていたか。近頃は随分、早いものだ』
その声が白い壁の向こう側から聞こえてくると、
ストッ。
母上はさっと座った。
間違い無い。成長している。月日が流れている。それも年単位で。音の方向を認識できるようになった、ということだろう。最初に見た場所での声の方向性の無さは、そのときは外の声の主たちからそういう風にされていたということなのか、それとも、最初のあのメッセージに焦点を当てさせるために母上による編集が加えられたか。恐らく後者だろう。
首が右に左にリズムよく振られ、視界が揺れる。バタバタと鳴っているのは足音だろう。それも揺れに貢献しているのだろう。
まるで子猫のように懐いているのだろう。子犬と言わないのは、どうも、忠実、素直、従属、という感じではないから。ちゃんと意志を持っている。そして、それに、あの海岸の崖の上の光景を、あの、父上を振り回す母上を見ている。あの感じはまさに飼い猫と飼い主との問答のように見えた。……。飼い猫と飼い主……?
どうして、そう思ったのだろう? 猫とそれに振り回される人、というところだろう。いや……大差ない、か……。
『では、外の世界の話をしよう。例の如く、常識的な範疇と、その裏にひしめく真実を。知っておくということは重要だ。しかし、その前に。君がそれを知る資格を示せ』
真実? 資格? 何を言っているのだろう? 何を勿体ぶっているのだろう?
『【秘密は在るべき処に。相応しき者のみが真実を知っておけばそれでいい。さもなくば無為】。ほら、これでいいでしょっ! これだけ何度も言ってればもう絶対に忘れないし間違えないわ! 話してっ! 早く早く!』
そう、はしゃいでいるのがこの無機質にしか聞こえないフィルターが掛かっていてもはっきりと分かる。どうやら、何か、この二人の間の、何だかの約束事のようなものなのだろうこれは。ついでに、母上が、少女らしい口調を身に付けており、たどたどしさなど微塵も無くなっているということが分かった。
とても子供らしい。少女らしい。どれ位の年頃だろう? 恐らくは10歳前後、といったところだと思う。理解力と知識量、つまり、言葉を選ぶ頭と語彙力からして、……元から異様に高かった。だから、もう少し幼いかも知れない。
それにしても、母上が言わされている言葉。何か意味はあるのだろうか? 唯の合言葉のようなものなのか、それとも重要な意味があるのか?
『では、始めるとしよう。今回の話は、人類の遺産を守る100にも満たない貴なる一族について、だ』
ぱぁぁぁ、と視界が明るくなる。目を見開いたのだろう。さらにこれは、身を乗り出しているのだろうか? それだけ聞きたいという欲に突き動かされているということだろう。
『君の旅で、成否を最も分けるのは、彼らと接触し、君も、数あるとはいえ希少な貴なる一族の末席に連なる者であると証明できるかどうか、だ。我々はこの地から動けない。だから君は、君自身の全てを以て、遥か遠方へと赴かなくてはならない。命掛けの旅だ。逃げられぬ旅だ。終わりは、到達か死。そのどちらかだ』
釘差しの言葉。
母上はそれに対して、
『分かっています。弁えています。犬や猫ではないのです。一度言われれば分かります。何度もそう頭ごなしに同じことを言われ続けても、無為です』
ふてくされているのだろう。そんな言葉選びだ。
『そうか。では、心せよ。君には無為に過ごす時間は、与えられてはいない。過てば、失すれば、それが君を、名を戴く前の…―、あぁ、そこまで怯えなくてもいい』
母の頭は下を向いて震えていた。蹲るように震えているのだ。視界は激しく歪み、
ぽとり、ぽとり――
恐怖を感じているのだ。何も知らなかった、人として認められなかった、人として在らなかった頃には、戻れない。それは不可逆だ。きっと、母上が想像してしまったそれは、唯の死以上に、どうしようもなく惨めな破滅なのだろう。
そして、――母上は、それを知っている。見ている。視界越しに体験してしまっている。まるで自分のような誰かが、自分がそうなるかもしれないさまをなぞるように、朽ちたさまを、きっと、知っているから。
『決してそうはならない。そうはさせはしない。私がそれを、決してさせはしない。それが私の使命だからだ。そして、私自身で決めた矜持であるからだ。ふふ。言葉にせねば、揺らぐ程に自身が脆いと思いたくはないのだが……。すまないな。こんなことよりも、君が為の話をしよう。そうでなければ、君の今日の頑張りは無為になってしまうな。ふふ、全く、らしくない。口だけの謝罪だけでは意味がないな』
視界の歪みが消える。首を起こして、真っ直ぐ壁を見ている母上。本当に真っ直ぐ。瞬きもせずに。壁の先にいる見たこともないのに、懐いている相手を、そうしたって見える訳がないのに、見据えるように、真っ直ぐ見ているのだ。きっと、そこに方向性のある意思は籠もっていない。それは、きっと、無垢な瞳なのだろう。そうだったに違いない。何故なら、
『……。決めた。今回の話を終えた後、君に一つ、権利をあげよう。何でも一つ、私に尋ねる権利だ。私はそれに必ず答える。しかし、私が知らぬことは答えられない。知らずとも推測が可能な事柄であればあれば答えよう』
暫くの沈黙の後、壁の向こうの声の主は、母上に、使役されるが為に人とされた母上に、そう、明らかに、本来言ってはいけないことを口にしたから。




