第二百十二話 メッセージ・スピリット・インサイド ~定められた日~
『君はいつか、その白い部屋から出て、外を旅する。ある場所へ向かう為に。それがいつかは分からない。それがどれだけの期間を費やすものになるかも分からない。そもそも辿りつけるかどうかも分からない。しかし、君は外で、生きている限り、目的地へ向かうことを放棄することはできない』
『でも、ここより……いい』
そう、たどたどしく答える。
『……。なら、一つ、君に問おう。外での旅に際して、今、君に最も必要なものは何だと思う? それは、道中で賄えないものだ。最初からあらねばならないものだ』
躊躇の末、口にすると決めて、口にし始めてからは澱まず、揺るがず、口にした、ということだと思う。恐らく、先延ばしにしたいのだ。殆ど意味はなくとも、できるだけ。
そう、感じた。だから思う。そんなことをする、してしまう、この声の主は、どのような者なのだろう? 母上との関係は何なのだろう? 他の者が口出しする素振りもないようなところからして、きっと、全ての線を引いたのは、恐らくのところこの人物だろう、と思う。
だから、その胸中は真逆の方向に一通りずつ予想できる。願わくば、それが情なき方でないことを願うばかりだ。
『もくてき、ち』
間を置かず、そう、母上は答えた。子供らしく、ここで、うーんと溜めたりなんていうことはこれまで見てきた光景で一度たりとも無いように思う。そうならざるを得なかったのだろうと思う。……。全て終わったことだ。……。どうしようもできる筈もない。
『それは出ることが決まった際に、知ることになること。今ではないよ』
柔らかく諭すような感じ。しかし、これは母上の為ではない。声の主の役割が為だ。立場が為だ。だから、加工されていない声を実際に聞いたらこちらの方が優しそうに感じるだろうが、その一つ前の方がずっとずっと暖かで、思いが、見え隠れする。見守るような。無事を祈るような。本当は役目に殉じたくはないというような。
後悔塗れの情、なのだろうきっと。
『ちがう』
また間髪入れず、母上は答えた。それは、妙にはっきりとした感じに聞こえた。無機質な筈なのに、明らかに、これまでの返答とは違う。それはしっかりとした意思が乗せられた言葉だった。
『どう、違うというのかな?』
素直な驚き、がそこにはあったように思う。口調に少しの崩れが見てとれた。この話し手は、こういう溜めるような言い方は本来しないと思うから。
『ここからがんばってでても、またつくのが、ここのようなどこかなら、わたしは、……ずっとここにいたい』
……。
暫く沈黙が流れた。声の主の表情、母上の表情、そのどちらもが見えないのだから、心巡らす他、無い。
そうして、目を閉じるかのようにうっすらと幕が下りて、視界は闇に包まれる。
『かご、ぼうし? ぼうし?』
?
時間が飛んだ、ということだろうか? 変わらない光景がそこにはあった。しかし、先ほどまでの遣り取りからの繋がりは感じない。が? しかし、何だ、この言葉は?
途中で切れたのか、最初からこうだったのか。編集され変になった、とかだろうか?
『?』
母上自体も首を傾げているらしく、視界はこくりと傾いている。
『籠・紡糸。返事をするのだ』
返事? っ! あぁ、そうか。なるほど! 名前……、名……前……? 母上の……名前……? どう、書くのだ……? 音だけしか得られないここでは、分からない。どう足掻いても、分かりはしない……。苗字は分かる。籠。それは間違い無い。しかし、肝心肝要な、名。それが、分からない……。
帽子? 防止? 紡糸? 某氏? 某誌? 傍士? 坊氏? 房氏? 畝氏? 厖氏? 懋氏? 某紙? 望氏? 房市? 卯子? ――……。きりが、ない……。
しかし……、それでも、知れた。知れたのだ……。何故、ここでなのかは分からない。けれど、知ることが、できた……。もう自己満足にしかならないかも知れ無いが、この口から、その名を、口ずさむことはできる。呼ぶことはできる。できる……のだ……。
『?』
感慨に浸っている間も話は進む。これでも依然首を傾げたまま、ということは、母上は、どうやら、名前という概念を知らないらしい。そうでないと、こうやって、首を傾げる意味がまるで分からない。必要なかった、ということだろう……。これまで。名前というものが……。つまり、そういう扱いを、暮らしを、させられてきた、ということだ……。
そんな母上に、
『君のことだ』
部屋の外のその誰かがそう言った。
『籠・紡糸。それは、君を指し示す言葉だ』
そう、はっきりと、明示した。
『今日この時から、君は、そう呼ばれたならば、返事をするのだ。それは君のことなのだから。それは、君という存在に名付けられた名前、だ。君は今日から、物ではない。我々と同じように、名前を持つ、人として、君を見る。形式だけでも。外ではそれが必要だからだ。分からぬなら、今はそれでも構わない。ともかく、今はこう覚えておくといい』
母上の視界がその声に合わせて、上を向く。母上は、自身に声を掛けてくる存在は、自身の上に、ここの外に、確かにいると認識しているようだ。
『籠・紡糸。そう言われたら、君は、はい、と返事を返すのだ。今はそれでいい。そこから始めるとしよう。では、ゆくぞ。籠・紡糸』
『はいっ!』
きっと、明るく大きな声で、そう返事したに違いない。満面の笑みで。何故なら、母上の視界から覗くこの世界は、今、一際白く、輝き始めたように見えるから。
きっと、意味も分かってはいない。しかし、何となく、それが素晴らしいことだといことは無意識に理解しているのだろう。名前。それは、ヒトという動物種でなく、人という本能を制する唯一無二の特異な動物種として生きることを歓迎された証。
人の、証なのだから。この声の主は、他の声の主と違って、母上を、人として在らせてやりたかったのだ、とそこで漸く気付いたのだった。




