第二百八話 スピリット・メッセージ・インサイド 始
視界は次々に切り替わり、音と共に、折り重なるように、押し寄せてくる。座曳はそれをただひたすらに集中して、見た。
それは、意識の中の視覚。それは、意識の中の聴覚。だからこそ、重なって見えない聞き取れないなどということは微塵もありはしない。それは整えられた、偽りなき――が為の――
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ぽとり。
汗が、垂れる。床に落ちたそれは、溶けるように、消えた。染みになるでもなく、音を立てて蒸発するでもなく。
視界の主が、顔を上げ、ゆっくりと部屋を見渡す。
小さな部屋だ。一辺3メートル程度の。端から端まで真っ白な部屋。明かりもないのに明るい、息の詰まりそうな、殺風景で、何もない、部屋。まるで出入り口などありはしないかのように白い壁に白い封をされたかのような、密室のような部屋。視界の主は部屋の中央に立っているようだ。
……。つい今しがた、汗が床に落ちるのを目で追ったということは、本来、見えている筈だ。その体が。しかし、何もない。汗が真っ直ぐ落ちただけだ。
それが汗だと分かったことすら、よくよく考えたら不思議だ。しかし、それが汗だと最初から全く疑わなかったのは、この部屋の圧迫感故、だろう。
視界が、真っ直ぐ、前を向いた。すると、
『支えるべき者の為、その生涯を差し出した、名すらもう無き者よ。君が次代に残すべきは何だ? ここだけだ。ここだけが、君の義務ではなく、意志に従おう』
無機質で、低く平坦な声。ゆっくりとはっきりとずっしりと発せられるそれは耳奥に暫く残る。何処から聞こえてきたか、という方向性は無く、声を発した者の姿は無い。
この視界は誰のものだろう? 当然、この声を聞かされている当事者のものだ。この音も同様だろう。当然、母のものだ。ここでもその姿は伺い知れない。せいぜい、その背丈は、子供染みて、小さかったのだろう、ということくらいだ。そもそもこれが、どれほど前の時間のものであるかは分かりはしないが。
「悲劇を避けるための備―…」
そう、途中で途切れた。
暗転する。
思った。本人も憶えていないものは、当然のように、再現できはしないのだ、と。ここに仮にでも声色を何か認知させてくれれば、それだけで安心できただろう。嬉しく思えただろう。それが紛い物だとは微塵も思わず、優しい嘘に騙されて、すこしばかりの幸せに浸れただろう。
しかし、そうしなかった。そして、整理された光景。必要なところだけ、順序を整えて、恐らくそうだ。これは、入り口。導入。
次が、開いた。
砂浜。
知っている筈の砂浜だ。眼前には、海が広がっている。それも、数歩の距離。浜と海の境界に、立っている。
しかし、この場所の光景は、少し違う。先ほどの映像記憶の奔流の中でも見たものと比べて。それは恐らく、時間帯が違うとこから来ているのだと思う。昼間ではなく、薄暗い。上から差す光がなくとも、真っ暗にはならない、ということなのだろうか。昼間であれば、上から明るく光が照り、辺り一面は巨大な洞の中であることを忘れさせるかのように、明るく照らされるというのに。
……あれも含め、実物は見て……憶えて……いない。視界が、足元から、上を向き、海だけが延々と広がっていて、その先に壁面が薄くぼんやり、見える。
潮の香りが漂ってきた。風が吹いた訳ではない。
どうやら、提示されるのは、視覚と聴覚だけではないらしい。いや、違うな。そうじゃない。これは逆に、削られた、と考えるべきだろう。先ほどの場所については、情報が削られ加工されていた、と。
ここもどうかは分からない。他にも欠けているものはあるかも知れない。そもそも、匂いは本来備わっていないが敢えて添付した可能性もある。
……。疑う意味はない。そのようなことをしては、これら全てを無為にするのといっしょだ。それに――騙し動かすが為の嘘がある、だなんて思いたくはない。
そうして、目の前の光景の、最も異様なものに意識を向ける。
それにしても、どうして、波は止まっている? 打ち寄せる一瞬を切り取ったかのように、止まっている。
っ!
視界が、動き出した。
ザァァ、ザァァ――
まるで取ってつけたかのように、波の音がし始めた。切られていたのか、そもそも存在しておらず今添付されたのか、それともしかし、眼下の海はまるで揺らいでいない。眼下。つまり、下。見下ろしているのだ。そこは、崖の上、だった。それも、先端。崩れても全然おかしくはない。
どうやら、視界の主の背丈に差異はないらしい。これでは時間軸が先ほどの話とどう前後しているか分からない。まさか、一から作った、なんてことはないと思う。そういうことをやってしまうと、この形式だと、全てが無意味になる。それに、あまりに半端だ。情報伝達の仕方としては。
そうこう考えていると――視界が、動いた。
飛び降りた訳ではない。足元が崩れた訳でもない。方向転換。振り返っただけだ。そこにいたのは、王、いや、父上だった。
「君は一体、何がしたいというのだ」
恐らく、若い。低くとも、張りのある、しっかりとした声だった。声に威厳はそこまでは乗っていないように思う。あの威厳は、一部、元からそういうところがあった、ということだろうか?
何故、ここで父上の昔の姿と声を見せる? 見たいのはそこではないというのに……。視界の主である、母上を、一目、見てみたい。せめて、記録越しに見ることくらい、それくらい、私にでも権利はあるだろう、と言いたい。父上に対して親不孝であった私であっても。それくらいは――許して、ほしい……。




