第二百七話 ゴールデン・ハーヴェスト ~穏やかな消失の風景~
「日が、沈みますね」
そう、言われて座曳は目を開けた。
(そう口にしたということは、)
周囲は夕焼け色に染まる気配など微塵もなかった。未だ、周囲は黄金色だ。しかし、着実に、変化は訪れていた。
終わりは夕焼けではない。この場が、自然現象でなく、作為であるということ。つまり、終わりとは――この景色の、消失、だ。
明るさが弱まり始める。徐々に徐々に、光量を落とすかのように、暗く、なってゆく。世界は一様に、闇色に染まってゆく。秋の屋外のような空気の体感も薄れ始め、地面の土の柔らかさも気のせいのように感じられ始める。稲穂の匂いは消え、向こうが透けて見えるように稲穂の実体も希薄になってゆく。
(やはり、終わり、ですか)
遠くから景色は闇に呑まれ始めていた。世界は光を色を失い始めていた。このままきっと、色褪せるように、ゆっくりと目を瞑ってゆくように、消えるのだろう。
(見たくは、ありませんね。こうやって消えるさまを……。目を瞑っているうちに消えてくれる方がずっといい……)
そうして目を瞑った。ぎゅぅぅっと。頑なに座曳は目を開けない。立ち上がらない。
(未だ、温もりは残っている。きっと、これが最後の最後に、消えるのでしょう……)
やがて――
「嬉しいのだけれど……、哀しいのだけれど……、目を……開けて……ちょうだい……」
(……)
そう、言われた。言わせて、しまった。その声は震えていた。後付けでも何でも、構わない。確かに確かに震えていたのだから。それだけでもう、十分に分かる。疑いようもなく、分かる。
(どうして私は、こうも目を開けたくない、と思ってしまうのでしょうか……。こんなもの、安っぽく月並みな独りよがりな感傷ではないですか。私は当時赤子であって、その後も何も母について知ることもなくて、だというのに、このように、心震わすのは、何か違う、と私の理性は客観は結論を出しているというのに、心はそうではなくて……。……そういう、ことなのでしょう。そういう、ことなのでしょう……。……知れても、良かったとはどうしても言えません……ね。何れにせよ、取り零した経験を拾おうとしても、意味は、ありません……ね)
「えぇ」
座曳は、溜め息混じりにそう口にした。
(涙は、溢れませんでしたね……。そこまで私は浸っている訳ではないのか、それとも薄情者なのか。……きっと、両方でしょうね……。本来なら、ここでは理屈など、投げ捨てて、感情の赴くままに、となるべきなのですから。……止めましょう……こんな自答は)
目を、開けた。
辺りは、座曳の周囲半径数メートルの半球状に存在しているだけで、その外は闇、だった。夜ですらなく、唯の、闇。何故なら、その先にはもう何も無いから。
僅かな黄金色の、しかし光を殆ど失ってしまった稲穂と、依然しっかりと残る、自身に降る白い光。残っているのはこれらのみ。地面の土の感触はもう消えてしまっていた。地に接していないような感覚。しかし、落ちてゆく感覚もない。硬さは、無い。
光が、母が、座曳に優しく語りかけた。
「そこで貴方が目を開けなかったら、開けても涙溢れてその目に禄にそれ以外を映さなかったら、私は嬉しありつつも、それよりもずっとずっと、色々と悲しかったでしょう。貴方は頭で考えず、涙を抑えようともしなかった。する必要がなかった。そんな貴方は、願った通りの、名に込めた通りの貴方に育ってくれたのだと、この上なく嬉しいわ。月並みだけれど、未練は、これでもう何も無いわ」
最後の光が消える。周囲が闇色の方が強くなって、もう、消える。残っているのはもう、これらだけだ。白光が収束してできた、飴玉程度の大きさの二つの塊だけだ。
いよいよ終わりなのだ、と思うと、どうしても聞いておかなくてはいけないと、一つ浮かぶ。そして、
「一つだけ、お願い、があります。……貴方の名を、教えて、ください」
駄目元で、口にした。躊躇を降り切って、口にした。予感していた。これは間違い無く、聞いても答えて貰えはしないのだろう、と。そして、
「名は、告げません。あの人と同様に、私にも、もう名は無いのですから。唯の、光失う寸前の一欠けらの水晶に過ぎないのですから」
沈黙はなかった。そうすらり、と口にされて、座曳は食い下がることを諦めた。そもそも、強要するつもりは無かった。最初から口にしないということは、そこには、何か、拘りか、意地のような何かがあるのだろうと分かっていたから。
(です……よね……。……。私の名前を口にしてくれたのに、貴方の名前を、私は口にできなかった……。どうして、私は分かっていて口に……してしまったのでしょうか……)
「残りの力は、貴方の先の為に、ここで。……では、さようなら、座曳」
そう言い終えると、
スッ――ッ。
座曳の両目へと入っていった。
(敢えて、それだけに留め、敢えて、私の答えを待たない、ですか……。まるで私のような行動原理と行動ではないですか。それでは絶対に満ち足りないと分かっているでしょうに……)
「さようなら、母上」
座曳はそう、口にした。名は呼べなくとも、そう呼ぶことはできるから。
闇の中、座曳は目を開いている。何も見えない。しかし、開いている。待っている。始まるのは、恐らく、映像。記憶。また、一気に叩き込まれるだろう、と。
少しばかり身構えていた。これまでの映像の圧縮注入が激しさと過度の疲れを誘発したものであったが故に。しかし、そんな身構えはあっさり解かれた。
座曳はふと、目の奥に温かみを感じた。それが徐々に体中に広がってゆき始める。そして、体中の感覚が、外と内との境界が、溶けてゆくような感覚に包まれてゆく。
手から、足から、そう、体の末端から、下の方から、そうなってゆく。顔は頭は、恐らく、最後。
(事務的でしかない、唯の役目は、これまで同様に貴方の力、光によって遣り取りされるのでしょう。感傷より、考察、ですか。はは、私は何処までいっても、こんなときですら、私なのだということでしょうね)
視界に白い光が差した。外からではなく、中、から。眩い位の光の筈なのに、座曳はそれが眩しいとは何故か思わなかった。ただ、暖かかった。
その心地良さに、座曳は目を瞑った。




