第二百四話 ゴールデン・ハーヴェスト ~知覚透かす一房の稲穂~
「私は貴方を産んだだけの存在。名前を与え、それで終わり。その筈だった。けれど、これは機会なのでしょう。最後の、機会」
座曳はそう自身に語りかける、母であろう存在に困惑していた。確かにそこにいるであろう存在に対して自身の感覚を疑わずにはいられなかった。
(今のは……。声で、しょう……。いや、しかし……、声、なのでしょう……。意味の羅列が頭を巡っていることがその証拠。これは明らかに、私が想像して創造した類、妄想ではないでしょう。私は母がいたとして、この場で出てきて、このようなことをする、とはまるで想定していませんでした……。これは、あまりに、私の知る全てと、違い、過ぎます……)
黄金色の光を人型にその部分だけ消したかのような間隙。それがきっと、座曳の母の凡そのシルエットだったのだろう。だが、それを座曳は認識できていない。光が途切れた人型の間隙があることは絶え間なく分かっている。しかし、それの大きさ、形が、それが人の形を象っているように見える、ということしか分からないのだ。それが大きいか小さいか、どのような体勢を取っているか、まるで、識別できないのだ。
姿以上に、声と言葉はより異様だった。懐かしいとどうしてか感じつつも、その声の、音の意味以外、まるで何も、思い出せない。今しがた聞いた声が、どのような高さでどのような大きさで、早い口調だったかも、聞き取りやすかったかも、それが知っている声か知らない声かどうかすら、まるで判断できなかったのだから。
卵が先か鶏が先か。認識などなく結果が認識として焼きつけられているのか、認識があってそれが大半を消され歪な形で残ったのか。
どちらにせよ、声と姿形、それらの――
ブゥオオオゥゥウウウウウウ、サァァァァァァァァ――
加えて匂いも、そう、何もかも、それのパーソナリティーを特定できる、知覚的な情報は、無い。
座曳は少しばかり迷いつつも、
(……。恐らく、記録だから……、ですか……。……確かめて、みるとしましょう)
口を開くことにした。
「これでは、何の意味も無いではありませんか」
そう、口にした。左手を腹に当て、右手の掌を額に押し当てながら。力んだ手の先。だからか声は震えると思っていたが、それはとても落ち着いていた。穏やかでもなく、気落ちた感じでもなく、言うならば、そう――坐っていた。
まるで、揺らいでなんていない。このような事態、まるで動じる理由もないと言わんばかりに。そんなつもりのなかった座曳は、内心自身がそれに驚いていない、ということを客観視してまでいて、それでいてこんな風に落ち着いていた。腹を抑える左手先は汗ばみ、額を押さえる右手先はぐぃぃと食い込んでいるというのに。
酷く、ちぐはぐだった。
そして、少し俯きがちだった顔を座曳はそのまま上げた。表情など分からない。しかし、そうしなければならないような気がしたから。相手はそうして、手番を渡して貰えるのを待っている、いや、待ってくれているのだ、とどうしてかそういうように思えたから。
こんな訳の分からぬ形で現れた――後付けのような懐かしみだけ押し付けてくるような相手に何故か、配慮してしまう自身を、俯瞰するように客観していた。まるで他人ごとのように。きっとそれは、何処までも実感がないことから来ているのだろう。
しかし、それを真っ直ぐ直視する姿勢へ座曳が戻っても、それは何も発しようとしない。口の動きなどは視認できない。あるかも知れないが、意識に留めてはおけない。残るのは、言葉だけ。まるで綴られた口語調の文章が残るだけ。
だから、その沈黙に座曳は戸惑った。母と名乗る、それが母であると父にお墨付きを貰ったその存在に。自身がそれを母と形容する言葉を第一声で月並みに口にしなかったことも、その母が自身の名前を口にしないことにもまるで、心の揺れなかったことを自覚していた、それが世間一般の常識的な観念や反応からかけ離れていると分かっている上でどうとでもと気にならなかったのに、今こうやって続く沈黙はどうしてか酷く、息苦しかった。
風は吹かない。沈黙が続く。
ツゥゥ――
未だ額に食い込ませた右手先から肘へ、垂れ、離れ落ちた、汗の雫。地面にそのまま溶け落ちて、着地して弾ける音は鳴らなかった。それに合わせるように漸く、
「意味は……あります。しかしそれは、貴方に直接、ではありません」
答えが返ってきた。
恐らく問い質しても意味はないと結論を出していた座曳はこの違和感を何とかする形での、人と人との遣り取りらしい普通の遣り取りを望むなんてことはしなかった。
(……。保留、ですねこれは……。こちらの意志が伝わっていてそれが意味を為しているのかどうかすら、分からない。通っているようでいて、通っていないようで、かというと、どちらとも決めかねます……。これは過去に編まれた情報なのか、それとも今編まれている情報なのか。この私の母とされる方の意志はそこに介在しているのか、父がそうしたのか。何れにせよ、確かに、いるには違いないのです。直感が、そう判断を下している。何処か、何か、憶えていた、ということなのでしょうか。そうと断じるだけの感覚を、根拠を、ずっと昔、いつかのどこかで――)




