第百九十八話 深海の幻灯 第四
景色が、光景が、作られてゆく。
(閉じられない)
自身を現実で覆っている海が消えたかのように、感覚が一度、切られる。
(抵抗できない)
次に感覚が戻ったとき、まるで見せるためのような、誰の視界でもない、作られたかのような、編集されたかのような、世界が展開される。しかしそんな世界に、没入させられるのだ。現実染みて感じられる感覚が、自身の心の壁を消す。
(許容する他に、ないのですから……)
ここにきて、四度目の、見せられる、幻……覚……――来、……た――――――――
ずっと昔。何処か。この、海の底の都市の、何処か。
昼間だろうか? 天井の採光穴から、光が真っ直ぐ落ちている。スポットライトのように。どうやらそこは暗い場所のようで、その周囲以外は暗闇に包まれている。埃と少しばかり苔生した赤い絨毯の上。向かい合うように立つ、大人と、子供。そんな、俯瞰。
が、聞こえてきた声と共に、視点は動く。酔いそうなぐにゃりとした揺れと共に、向かい合う二人を少し引きで、二人の上体が視界には収まっている。
「王。本当に、そんな……ことを……?」
そう答えたのは子供。彼女だ、彼女。まだ、人の身の彼女。しかし、その存在は贄として縛られた彼女。そう。彼女。結だ。再会のときとこのとき既に同じ衣装、同じ髪型であるのがその証……。
けれどまだ、その声は無機質染みてなんていない。まだ、その表情は罅割れるなんてことはないのだ。
そんな彼女の表情は、手に取るように分かる。とても分かりやすかった。未だ、無表情の仮面を被っていない彼女。
驚きが真っ先に来て、次に半信半疑、といったところだろうか? だから、こんな表情をしているのだろう。どうしてだろうか。目の前のアレが、何かしたのか? 悪いことではないようだが……?
「手心など、あってはならない。相応しくてはならない。相応でなくてはならない。必然であらねばならない。何せ、我が次の、王だ。あれには、その資格がある。それだけのこと」
白布の長いマント衣のように幾重に重ね、フードを被るように頭まで覆われている。顔は十分に見える。もう少し頭の覆いに深さがあれば、見ずに済んだのに……。
王は威厳を纏った声であった。表情は険しさを保っていた。しかし、それは無機質には聞こえなかった。王……、いや、アレの声は……。
アレが彼女にこんな声を向けていたことがあったのか……。こうやって他の目が無い場では。
「ありがとう……ござい……ます」
彼女は膝をついて、涙を流した。それに合わせて視点が下がった。
頭を垂れて、右手で両目を拭い、それでも零れ、ぽとり、ぽとり。よく、見える……。何だか、とても嬉しそうで……。けれど何処か悲しそうで……。そう、何か、手を差し伸べたくなるような、そんな風な……?
「言ったであろう? 手心は加えぬ。それに、お前の目論見は、お前を縛る呪いの外だ。何も違えてはおらぬ。それに、全ては、あれが我を負けさねば始まらぬよ。ふはは」
消された余韻……。が、しかし、助かった……。苛立ちをおぼえずにはいられないが。
王はそう、最後に表情を崩して笑い、彼女に背を向け、その場を後にした。
視点は王を追わない。この視点は動かせない。だから、未だ何とか、見さされているものなのだと認識できている。辛うじて、意識が没入していしまわなくて済んでいる。けれど、とても、危うい。
拒絶は許さなくとも、こうやって思考を許しているということが、どうしようもなく、……。
コト、コト、コト――
どうやら絨毯を超えたらしい。そして、物音が消えた。次に、王のあの威の気配が消えた。残っているのは、彼女だけ。それでも彼女は、未だ、そのままだ。頭を上げない。何故、だ?
天井の採光穴の光が、真っ直ぐではなく、斜めに差し始め、弱まった。急に……。そう認識したと同時に、背筋に嫌な寒さを感じた。
彼女の頭が、僅かに上がったから。そのとき見えた口元が、……。あの口元……。あの感じ……。色々な感情が混ざって吐き出しそうになっているのを辛うじて抑えている、そう、耐える為の口元、だ……。
蹲ったかのような姿勢の彼女はその背を震わせた。そして、さっきまでとはまるで違う、力の籠もった震えた声で、噛み締めるように、言葉を、口に、した。
「待っていて、座曳……。待って、……いて……」
彼女は俯いたままそう言った。確かに、そう言った。まるで前後の意味が通らない。しかし、一気に不穏な感じがした。
こっちを向きもしない。だからそれは、誰に向けて言ったのでもない。それは彼女が彼女自身に向けて、言った言葉だ。
分かるとも……。そう、分かってしまうとも……。さんざん僕はそうしてきた。これまで何度も、そうしてきた。己が為に。
なら、彼女も――……、いや……、それは、それだけは……、ふ、ふふ、ふは、はは……、違う……、それだけは、駄目、だ……。いや、そもそも……、何が、どう、……なっている……?
「貴方をその呪縛から……救う……から。私の気の、迷い。それが貴方を、そうしてしまった……」
……。駄目だ。これは……。演技ではない……。作りものでもない……。
毎度のように、彼女を見つけられず、無為に時間を消費した、罰。彼女を待たせて、遠ざけた、罰……。彼女から、僕に下される、罰、だ。罰……。
四度目。君は、何を、僕に、……一体、何が、……。
「どうしても、思い出して欲しかった……。貴方にだけは……。それだけでよかった……。それだけで……。私は、罪を、犯した。貴方は、忘れてなど、いなかったのに……。座曳、……、ごめん、なさい……。王よ、ごめん、なさい……。みんな、みんな、みんな……、ごめん、なさい……。私は、招き入れて、しまった……。あれは、勇者なんかじゃない……。私は、間違えた……」
……。船……長?
そのまま、その世界を覆うように、新たな世界が、また、展開を始めた。覆われる世界は時を止めて、まるで動かず……、何もできない僕は、ただ、罰を、これまでの……――
ザァァ、ザァァァァ――
海底都市の淵の一か所。周囲の岩々が青緑に薄明るく発光する、地底の入り江。波打つエメラルド色に見える海水と、白い砂浜。そして、
「げほっ、げほっ、ぶふぅ、はぁ、はぁ、はぁ、かぁぁ、何とかぁ――、辿り、着けたぜ!」
随分見慣れてしまった声と姿が、そこには、あった。




