第百九十一話 机上空想の海戦:詰手、剪定、確定敗北
彼は最後の最後、怨を押し殺して、そう言った。彼は分かっていた。たとえ彼女を助けられたとしても、それから先。先が、見えない。先が碌にない。そう思えてならなかったから。放っておいても彼女はそう遠くなく終わる。自身が勝つことで彼女を助けても、少しの間彼女は自由を得られるだろうが、深く深くまで手を入れられた彼女が、ここから離れても生きていけるのか? そもそも、生きてゆけるとしても、それが彼女をどうしようもなく不幸にしないか、それが不安だったから。
彼は、自身しかいないから、自身が彼女を助けないといけないと思っている節があった。彼は、自身が彼女をどうしても助けたいという訳ではなく、彼女にとって最上の結果になると自身が思う経路を結果をなぞれればそれでいいと思っていた。
この年にして気の狂いそうな程の錯乱狂気を辛うじて抑え込んで留まり、最後の最後に、自身の芯としたことに殉じるように、そう尋ねたのだ。
そのことを、王は感じ取っている。だから、王は分かっていた。必要なのは優しい嘘だ、と。たとえ、恨まれても、呪いの言葉を吐かれての実の息子との別れとなっても、それでも、そうするのが、施政者として正しいのだと分かっているが、それは、感情の上でも理屈の上でも、できはしなかった。
そう。彼女。
彼女という、第三者の意思を束ね信任され、代表している審判が存在しているが故に。今の彼女に、もう人ではない、機構であり装置であり、道具である彼女に、そのような意思はない、と諦めてしまっていた。
が、王は見誤っていた。彼女は人だ。どうしようもなく。その厚い心の殻の下は、人の中でも一際人らしく、未だに人だ。
少年は、彼女にそういう意志も選択も許されてはいないのだと、はなから論外としている。しかし、違うのだ。彼女は、この場であるからこそ、それが許されるのだ。彼女のみが、どうであっても、弾劾されることはない。彼女の判決は、彼女の言葉は、民意の総括。
彼女の言を否定することは、儀式の根底の否定。前提の否定。だから、儀式によって決まる結末を、彼らは否定できない。
だから――王は彼女に唯、言わせるだけでいい。彼女にある、と言わせればいい。それに中身が伴う必要はない。詳細は王自身が詰めればいい。儀式の場を出たら、そこでの支配者は王だ。儀式内での確定事項以外、王はこの都市のあらゆる全てへの干渉の権を持つ。
だから、そう、私欲に任せ、彼を救ってやればいいのだ。優しい嘘で救ってやればいいのだ。たとえ、どう足掻いても、彼女を助ける方法が、彼が勝つ以外ないとしても、そうであるという結論を先延ばしにしてやればいい。探し求めるよう努めると嘯けばいい。
容易いことだ――これが儀式の場でなければ。彼女もその対象に入っているという時点で、論理の矛盾を孕んでいる。どう捻じ曲げようとも、彼が王に問うた懇願の答えは、否定、以外、存在できないのだ。
王は、力無く、言葉を口にするしかない。そうしなければ、儀式は終わらない。沈黙は、唯の無意味な引き伸ばしでしかない。そんなものは、目の前の彼に対する侮辱である、と王は痛々しいほどに理解している。
王自身も、嘗ては、背負った者、だったから。尤も、彼より一足先に失敗して終わった、どうしようもない先達でしかないが。
だが、だからこそ――……、しかし、王は王だ。全て自らの内に押し殺して、王という装置としての役割を、全うする。負けへの道すら、その役割のうち。負けが確定したからといって、背を向けることはしない。これまでの通り、何も悟られず、何も理解されず、そう。最後のその時まで。
「あぁ。無い。勝者として立っている以外に、無い」
(一見意思疎通にずれがあるようなその解答。王は予見していたのだと思う。だからこそれは、最後のヒント。直接伝える訳にはいかない。観客が気付けば終わり。だから仄めかすかのような言葉を選んだ。けれど、そんなの、想定できる訳がない……。だって、それは、大人の理屈。大人の世界の、常の理不尽。狡く賢くなんて、微塵も生きていなかったのだから。狂的に真っ直ぐに見えて、冷たく理性的な風に見えて、でも、熱くならずにはいられない。そんな彼に気付ける筈が、無かったの……)
「では、詰み、といきましょう。攻め手無しで貴方を詰ませてもいいですが、ここは、貴方のこれまで全てを否定する、劣等の証明という形で終わらせることとしましょう。
(けれど、そう考えると、どうしようもなく分からないことがある。ここまで彼を誘導した者の手は、この矛盾をどうして彼に教えなかったのだろう?彼を勝たせることが目的じゃなかったの?そして、彼は、そんな者の手で、またここに舞い戻ってしまった。私の知らない何がが、まだ裏にあるとしか……)
それは砲撃ではない。まるで彼のこの闘いへの姿勢そのものであるかのような、どうしようもない、
ボシュッ、ブクブクブクゥゥ、ブゥオオンンンンンンン、バシャァアアアアアアアアアンンンンンン!
潜水艦での自爆特攻による撃沈、だった。
彼女は双方向に見た聴いた儀式の光景を伝えるのを随分前に止めていた。丁度、彼が奇策を成したその辺りから。
途中からもう、彼と王への観客の声を遮断していた。あまりの音量。あまりの熱量。あまりの心乱。それが王に。あまりの殺意。あまりの拒絶。あまりの否定。それが彼に。伝わってきていたなら、儀式そのものが根底から破綻したに違いない。彼らの声に二人が反応することは微塵にも、あってはならない。彼らのそれは、まさに、衆愚の乱痴気と変わりないような、百害あって一利ないものだったから。
彼女にはそれが分かっていた。だから、終わりまで、見せる映像と音声に幾許かの加工を行っていた。爆裂の色彩を抑え、王と少年の問答を要約編集していた。本質的には変更は加えていない。
しかし……これは、彼女は想定していなかっただろう。
「認めない。認めない。認めない」
「まるで悟り。そんなものはあり得ない。不正だ。不正だ」
「こんな愚者を勝者と認めてはならない」
「こんなことあってはいけない」
「嘘よ、夢よ、こんなの」
「うぁぁぁぁぁぁ」
「王、王、王よ、どうして、どうして貴方様は……」
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「無しだ。こんなものは、無しだ。まぐれだ。勝ち負けもへったくれもない」
観客の誰も彼もが、大人ぶり、様式を保った振りをしつつ、子供のような駄々をこねる。彼らにそんなものを決める権利など本来無いというのに。勝敗を決定するは彼女。勝敗を競うは、彼と王。そう決めて、始めた筈なのに。
「……。違う。王は、負けていない。あの子供は不正をした。何か分からないが、間違いない。そうでなくば、王がこのような圧倒的なやられっ振りは、あり得ない」
それが流れを悪い方向に変える。彼女が情報遮断と情報遅延を組み合わせて行った結果が、裏目に出た。
言いがかる隙を与えてしまったのだ。
彼女の知覚を通して、それも、彼女の恣意に従って取捨選択と、実況か遅延か、そして、二人の会話の内容も決まる。編集されている。何をどう編集したかは分からずとも、観客たちには、どこが編集が入った箇所だったかは分かるのだ。そう。分かっているというのに……、見ようともしない……。
そうして、当然の帰結に至る。




