第百八十四話 継ぎし残懐、遥か彼方、嘗て在りし海
彼女は、境界に立っている。それは、対峙する二人の領域の境界。
彼女のみがこの場の全てを見ることを赦されている。彼女の次に多くを見ることができるのは観客たち。対峙する二人は自身の領域側のこと以外は殆ど伺い知ることのできない。この場から遠ざけられた子供たちは、ここでの出来事を知ることはない。王の贄となることを自ら申し出ない限り。
揺らぐ、深い蒼の海。時折大きくさざなむ波。方向を変えながら断続的に吹き続ける、冷たい風。彼女にだけは、その場所の光景が遮るもの無く見えている。
水面に揺らぐ光の帯のような線格子で区切られた三次元の、海。夜明けの海と、夕焼けの海。モンスターフィシュ何ぞ存在しなかった頃の、海を人が自由に渡れた嘗てを再現した、場。
彼女が見て、感じて、そこに違和が無ければ、その幻影は観客たちに解放される。すると彼らは声を上げる。
彼らは、自身とその光景以外、今は見えていない。互いの声だけが聞こえる。響き渡る。示し合わせも無く、しかし、思いを同じとする彼らの声は、まるで統一されたかのように連なって流れてゆく。
「海だ」
「我々の、目指す、海だ」
「私たちの母なる海」
「制し、御し、我らが場とした海だ」
「嘗ては近しきものだった」
「あぁ、未だ、私たちは忘れていない」
「忘れてなど、おらぬのだ。風化してなどある筈もないのだ」
「そこは我らの海」
「ここを我らの海」
「そう」
「そうだ」
「この光景を現実にする為に」
「この光景を取り戻すために」
「私たちは」
「儂らは」
「我らは」
「僕たちは」
「そう」
「遥か先祖から途切れず思いを紡ぎ、ともし続けている。希望を、灯し続けている」
「その時が来るまで。その瞬間まで、蒔をくべ続けるのだ」
「その為には」
「私自身も、愛する人も」
「我が子自身が望めば我が子も」
「王が必要と言えば、我が身の全てを」
「我らは均一に」
「私たちは同一に」
「遥か昔の誓いに従って、生きている」
「絶対に、叶えてみせる。私が届かずとも、私の子が。子が届かずとも、孫が。孫が、その子が、その孫が届かずとも、その先が、いつか」
「あぁ。我らの係累の何れかが、いつか」
「願いを成就すると、信じておる」
「我らは礎」
「しかし願わくば、今代で」
「願わくば次代で」
「その時に居合わせたいものです」
「一刻も早く、悲願へ到達するのだ」
「その為には王だ」
「先ず何より王だ」
「船頭たる王が正しく指標であらねば、目的の地平へは永遠に辿り付けない」
「対峙せし者は王の蒔か、それとも、王の過ち示す次なる王か」
「我らは見て居る」
「私たちは見定めます」
「ここは、通過点」
「ここは、転換点」
「繰り返すように新たな指標が立ち、選定はやり直される」
「我らのこれまでと、我らのこれからが過ちでないことを祈って」
「私たちの道筋が、血塗れでも、正しいと信じて」
彼女は、思う。
もう、自身の先祖の始まりの思いすら、他者を挟んだ言い伝えでしかないのに、どうしてそれに妄信できるのか。まるで、自ら何も考えていないような彼らが、彼女には、狂おしく見えて、しかし、彼女には何もできない。
この身に堕ちたからこそ、見ることができた、過去の真実の、始まりの記録。記憶とは伝言とは違う、確かなる事実。統制の対象外な記憶。変わりに封じられた、自身の言葉と記す文字や絵の、脳裏に刻まれた制御。
(これだけは、本当にどうしようもなく終わっている、停滞している。当時の私でもそれ位は分かっていた。座曳はこのとき、どれだけ気付いていたのかしら。義父様は、この時の私よりは気付いていたけれど、今の私よりは後ろにいた。あぁ、座曳。私の座曳。貴方は何をどこまで想定していたの。どこまで織り込んで、受け入れて、納得して、行動したの? 貴方の思い通りだったの? 聞きたいことなんて沢山ある。溢れるほどに。けれど、私自身すら、どこから訊ねてゆけばいいか、もう分からない。混沌染みて、ぐちゃぐちゃ。愚かしくも私は、先を見る目も、思考も、持ち併せていないのだから)
フゥオン。
フゥオン。
二人が、現れた。
海の上空。浮かぶ二人。数メートル離れて対峙する二人。二人には、互いとこの海の幻影しか見えていない。聞こえていない。感じていない。
王が悠然と構え、腰を下ろす姿勢を取ると、それに合わせるように現れた、赤いフェルト地のがっしりとしつつも、飾りない王座。
少年はそのまま。ただ、王を冷めた目で見ている。微塵も顔を緩めない。
ブゥゥウウウウウウウウウ――
ブゥオオウウウウウウウウウ――
王の側から青い波。少年の側から赤い波。二人は振り向かない。表情を変えない。唯、互いに目を合わせて、動かない。二人の頭よりも遥か上の上の高さの波が、それぞれ二人を背後から飲み込んでいって、ぶつかる。
ザバァァンンンンンンン――――
ぶつかり、せり上がった波が海に落ちて――、二人の姿はそこに無かった。王座だけが、そこには濡れもせず、残って浮かんでいた。それは、この儀式が、本来、王の後継を行う為のものであるという証そのものである。
この儀式を組んだ者が、そのような意図を以て、今までそれを間違い無く引き継いできたことの証そのものである。
彼らは、歩み続ける。後悔は後でいい。全て無為になることこそが、遥か昔にその理由すら失って、漠然と唯、恐れが畏れとなって、彼らの歩みの根拠。
それを以て、この儀式の準備は全て終わった。後は、王が、今再び試される。それだけである。




