第百八十三話 互い違いに近くて遠い
(今も昔も、変わらず、分からない。座曳は、このとき、自分の存在すら消し去るつもりで言っていたのかどうかが。それが、それこそが肝要だというのに、どうしても今でも見えてこないの。教えてくれないかしら、座曳。あのときの貴方でない貴方には答えられないかも知れないけれど、でも、形だけでも答えが無いと、私は、やっぱり、最後の一歩が、踏み出せない)
王がどういう結論を自身の中で出したかは定かではない。どちらにせよ、これが伝統に則った儀式の中の遣り取りだと決まった時点で、王に決める権利はもう無い。
民は、放つ雰囲気からして、どう見ても賛同してはいない。
そして、彼女すら、それに微塵も賛同できない。だからこれは、彼の、独りきりの彼の、独りよがりな無駄死にでしかない。
この場の誰よりも他人事のように見て居た彼女だけは、薄々気味の悪い終わりに気付きかけていたから。
(『もし、彼が勝ったらどうなるの……? 想像、できない……』。私はそこまでは気付いていた……)
改めて彼女は周りを見回す。遠くてその顔の一つ一つまでは見えなくともその雰囲気が、どんどん、嫌な感じのものになっていっているような気がしても、彼女は何もしようとはしない。
彼ら以上に、自身には一切の意思は問われていないのだ、と。そう、諦めきっている。
(同じ服を着た、同じような考えの、止まった人たち。大人も子供も、未来を見ていない。過去を今にし続けているだけ。進むも退くもせず、自ら望んで停滞していた。あの時の私もそうだった。けれど、今重い返せば、何もかもが、嫌で嫌で堪らない)
そうして、遠くから近くへ。そして、傍の彼を見て、他との明らかな違い、までは感じていた。
(けれど、彼だけは違っていた。彼を周りが止めなかったのは、彼は今日この日まで、微塵もそんな素振りを見せなかったから)
彼には子供というには逸脱した、並々ならぬ執念と恩讐があった。意思があった。この都市の、恐らく、王以外誰も持ち併せていない、自らの心の中から沸いてきたのであろう意思が、確かにあった。
王と彼女だけはそれに気付いている。
彼は決して大人ぶっているわけではない。確とした、思考から生まれる彼の言葉は態度は、他の誰でもない彼自身から紡がれたものだ。
短い言葉には、そんな彼の想いが、確かに乗っていて、だからこそ、人々の目線は、冷たく刺々しいものになった。声に出さずとも、殺気は、侮辱は、憤怒は、拒絶は、届くものなのだから。
その、真意や意図は伝わらずとも。
当然だ。彼らは耳を塞いでいる。何故なら、彼の言葉は、ここにある全てを否定する、裏切りのような言葉だったから。
「もう、終いか?」
王がそう尋ねると、
「ええ。よく、分かりましたよ。何を言っても無駄だと」
彼はそう、落ち着いた様子で答えた。
「なら、何故口にした? 分かっていたのだろう?」
王がそう口にすると、周囲の雰囲気が揺らいだ。観客が一堂に揺らいだから。彼らは少年の言葉には耳を塞いでも、王の言葉に対してはそうではない。
「そこまで腐ってはいない、と僅かながらですが、信じたかったのですよ」
だから、彼がそう言えば、また空気は澱む。暗く、閉じたように。
(ここに、ヒントがあったのかと思う。だからこれは、最初から最後まで、勝負じゃなんて、無かった)
そんな空気を、とうとう王が見かねたらしい。
「皆。聞いてみようではないか。この者はつまり、あるところまではこうもここに失望して、怒りに塗れて、呪言に苛まれることなど無かった。ということではないか。なら、知るべきだ。我々は。耳を塞ぐべきでは決してないのだ。そういう」
これまでより大きな声で、客席の隅から隅まではっきり聞こえるように、そう言った。言葉を選んで。半ば観客たちの為に。半ば目の前の実の息子の為に。
そして、その意図は伝わったらしい。
大きく彼は息を吸った。吐いた。そして、吸って、声を出し始めた。
「この都市の裏側を知るまでは、ここの在り方が僕はとても好きでしたから。だから良い子であろうとしたし、善い市民になろうと思っていました。もしかしたらこうやって、貴方に挑戦し、信じて全力を出し切って、満足げに、この都市の蒔になっても良かったかも知れません」
先ほどまでの言葉が嘘のように、彼の言葉は澄んでいた。目は澱んでなぞおらず、透き通っていて。本当に本当に、穏やかな様子だった。
(でも、この時の彼は、誰をも見ていなかった。私も義父様も、観客の誰もが、気付いていなかった。彼はもう、戻れないところまで、憎悪に染まっていたのだと。だから彼は、忘れても、その怒りだけは忘れられなくて、一度消されて、それでも存在し続けて、そうして、この都市を半壊させることになったのだから)
「たった、それだけ。それだけですよ。全てもう過去のこと。終わったこと。過去は変えられない」
彼はそうして、言い終えた。
「退かぬ、の、だな? その身の全てを賭ける、と」
最後通牒。
王がそれを口にする。そして、
「ええ。僕はこの身全てを賭けます。与えられる筈だった名に誓いましょう。僕、は止めです」
彼はそう、力強く言い、目に熱を灯らせる。
「僕には与えられる筈の名前がありました。それは奪われました。他ならぬ貴方に。それを与える筈の貴方に」「そして、貴方を含めた大人たちは、その一切を忘却することを選んだ。でもそれでいて、奪った名の通りの在り方を強いた」
確かに彼はそう言った。他ならぬ王にそう言った。そして、その顔は冷たく冷えていった。どんどん無表情になっていって、火照ったような頬の赤みはさめていって、青白くなっていって、そこまで溜めてようやく、彼は、
「今このときから、終わりまで、私は、座曳。籠・座曳。籠の中で育てられた、王の座を曳くことを望まれた者。と、まあ、そんなところです」
口にした。そうして、彼の命運は決した。
「結。ルールの説明に入ってください」
彼女にそう言って。
「賽は投げられた」
王がそう追随し、彼女は
こくり。
それに従った。どこからともなく、一枚の藻色の薄い長方形の板を取り出して掲げて。横1メートル程度、縦50センチ程度。何も書かれていない、そんな、板。
それを、観客たちに見せるように掲げ終えた後、彼女はそれを、振り下し、
ブゥアンンンン、ヒキッ、バッ!
(私には、分からない。二人がどこまで先を見据えていたのか)
膝で蹴り上げるようにして、真っ二つに割った。緑色の光がその断面から立ち込め始め、彼女を覆い、そして、少年と王を覆い、そして、闘技場一体を覆い隠した。




