第百八十二話 届かない、箱舟沈める反逆者の名乗りすら
「王よ。どうか聞き届けて頂きたい。僕は命を賭けている。だからこそ、もう少し、御許し願いたい」
彼の口調。それは、向かい合う彼と王の間、そこから一歩引いて双方を見ながら傍で聞いている彼女には、これまでの口調よりもずっとずっと重苦しく聞こえていた。理由も分からず。しかし、変化は、その目と、表情から明らかだったから。言葉の選択も、声の調子も本来、この場に登場して、抑えて王と遣り取りするときと変わり無いというのに。
「ならぬ」
王は、そう言い放った。彼はその意味を言われるまでもなく汲み取っていて、
「彼女に、ではありません。僕は未だ、名乗りを上げていません」
まるで分かっているかのようにそう言った。
「名、とな?」
当然、わざと。王がそう言うように誘導して見せたのだ。それができたのは、単に、持つ情報量の違い。
「いいえ、名乗り、ですよ。口上のことです。これが最後の言葉になるかも知れない。だからこそ、心残りを声に出させて欲しい。そしてそれは、この場の全ての人へのメッセージなのです。どうやら僕は、他の子供たちとは違うらしいのです。このような場に自ら立っておいて何なのですが、黙って死ぬのは御免なんですよ」
彼は彼女の方を向かず、真っ直ぐ王を見てそう言った。
尤もらしい言葉でコーティングされた本音。王は未だ、彼の秘を、策を、知らない。彼はここに立つ為に、備えてきた後だと、微塵も知りはしない。
「ほぅ」
王は明らかな興味を示した。
「なら…―」
畳みかけようとした彼だったが、王はそれを遮るように、
「儂としては構わぬ。が、決めるは儂ではなく、"これ"だ。弁えよ」
彼に対してはきっとこう言った。答えを決めるのは"これ"だ、と。王は、彼女の方を向いて名前も呼ばず、そういう道具でも使うかのように。
彼女の方を向いて、彼女が、こくり、と俯くように頷いたのを確認して、そして、王は真っ直ぐ前を向いた。彼女の方へ顔を向けた彼が、少し遅れてそれに追随し、彼と王は顔を再び見合わせる。
「……。いいでしょう」
そう言った、彼。今度は微塵も怒りを見せなかった、恐らく堪えて見せた彼。僅かな沈黙がそれを物語っていた。そして、今度は、王は見向きもせず、
「然して裁定は?」
彼女に促す。
王の問いに対し、彼女は答えた。
「双方の同意と納得の上で、あるべきです。これは、そのような儀式です。ですから、思いあれば、口にするのは当然の権利」
無機質に、抑揚のない声で、読み上げる。
(私はこのとき、そんなつもりはなかった。こんなおかしな声で言うつもりは無かった。けれどもう、変化は、私を飲み込もうとしていた)
「これだけです。僕は、貴方を、貴方方を、決して許しはしない。たった、これだけのことです」
ゆっくりと言ってなお、僅か十秒足らずの言葉。それが彼が命を捨てる、理由。人々に告げた、理由らしい理由。言葉として答えになっていないそれは、言外の言葉として伝わる。
これは、復讐だ。
この場所全てへの、復讐だ。
ここの人々全てへの、復讐だ。
ここが守り引き継ぐものへの、復讐だ。
彼の声は、叫びではなかった。
だが、周囲を揺らす、大きく響く、低い声だった。喉をきしり鳴らすような、喉をすり減らしたような、だというのに、巨大な声が、圧のように、周囲へ蓋のように被さり降りた。重く、重く。
(『(な……にこれ……。お……もい……)』。何度思い返しても、ただ、それだけを感じるの。深く暗い海に沈んでゆく、光が、失われていくような、息もできず、指先一つ動かなくなるような、感覚。思い返すだけでも、まるでそのときそのものみたいに焼きついてる。頭がじゃなく、体が、心が、それを憶えているのだから)
物理的には何も起こっている訳ではない。その幼い少年の声が真に圧を放っている訳では決してない。ただ、それが錯覚させているのだ。まるで狂ったような、その幼い少年の変貌が。こびりつくような熱量が。この場所を包んでいるかのような澱んだ暗い気が。
(そのとき、私は希望を見た。そう思っていた。酷い寒さと共に、灼けるような熱も、胸元に当てられたような気がしてたから。けれどそれが、自らの体に組まれた呪に依るものか、私の深いところが熱くなったからなのかは今であっても未だ、分からない……)
「どうやら、伝わらないようですね。響かないようですね。未だ、過ちを悟ることすらできないのですか。なら、こう言い換えて差し上げましょう」
再び、彼の目が、どんよりと坐った。
「忘れられるものか。背けていられるものか。見捨てられるものか。貴方方が、ただの一人の少女に掛けた呪いを業を。知っている。識っている。失っている。だから、僕が王になる。簒奪してやる。全てを。そして、全てを、灰に、藻屑に、無為に、変えてやる。彼女以外の貴方たち全てを、僕は、否定する」
彼が酔狂で、気の迷いで、蒙昧で、そう口にしているわけではないと誰も有無を言わさず認めざるを得ない。彼らは普段であれば、彼の言葉を罵倒するだろう。決して許さないだろう。それは、処すに値するだけの侮辱だ。
王を否定する言葉だから。儀式を否定する言葉だから。何もかも、先祖から引き継いできた何もかもが、罪に罪を重ねるだけの結果しか残していない、と、徹底的に否定する言葉だったから。
そして、半ば演説じみた彼の言葉は、こうして締めくくられる。
「ここの全てを簒奪し、そして、彼女以外何もかも残しはしない。今日が、この狂った王国の、終わりの日、です」




