第百八十一話 枯れ木の竜骨
「少々であれば構わぬ。が、それは些か度が過ぎる。儀式の最中である。心得ておろう」
それは、木鳴りのような声だった。人の声のようには到底聞こえないというのに、その音は言葉として耳に入ってくる。威を乗せた重みある言葉として。
その声を出したのは、幼げな少年と対峙する、この国の王その人。帆布のようなごつごつでありつつも、白く、ところどころ茶色に薄汚れた、しかし、皺一つない皮膚をした、老人である。背を曲げて立っているというのに、2メートルは優に超えている。
錆混じりの鉄の王冠をかぶったその頭は、一切の頭髪を持たない。それどころか、眉も睫毛も髭も無い。大きく窪んだ目は、瞳孔が開き切ったかのように大きい。たるんだ瞼の下から覗くそれは、まるで夜の海のように蒼く黒い。
鼻は削ぎ落されたかのように無く、二つの黒い孔が不気味に空いているだけ。唇も無い。同じくそぎ落とされたかのように。閉じ切らない口蓋はその間隙からまるで虹色光沢を持つ貝殻のような隙間なく生えた歯が見え隠れする。
頬も、無い。引き千切られたかのような跡が両頬の痕跡部分として存在している。頭から下。それは手と足先以外、微塵も伺い知れない。
その王は、巨大な旗布を外套のようにその身に纏っている。それは、白い布が、黒く滲んだもの。手首より先と足首より先と頭より下を覆っている。
足は裸足で、布から露出している境目辺りから茶色く、光沢と屈曲部に皺がある風になっているのは、足首から先を、生きたまま鞣されているから。手首から先も同様。まるで、オブジェのパーツを人に挿したかのよう。
それらは、王へ施される伝統的な処理。
それが、年月にやられ、最初に崩れ落ちる手先足先の補強の為の延命加工であることを、王すら最早知りはしない。
そんな、半ば人外の姿そのもののように成り果てた王が排斥されないのは、その中身は紛う事なき人間として醸す雰囲気。それだけ。それしか、王が人に属すると証明するものは存在しない。
この国の王は、人としての意思と威と智のみによって存在を地位を保ち続ける、紡ぎ続ける存在。そんな王に、目の前の幼げな少年だけは、ひれ伏さない。敬意を持たない。その重みある言葉に従わない。微塵も意志を揺らがせず曲げず、真っ直ぐ。ただ、示し続ける。怨を。
焦がれた言葉をやっと口にする、もしかすると最後かも知れない機会にされた邪魔に、剥がれた、皮。
「貴方がそれを、言います、か」
ギリリリリ。
しかし、翻ったそれはすぐにまた、彼にふわりと被さる。
歯を鳴らしつつ、王に灼きつくような眼光を向けた少年は、すぐさま元の冷静な雰囲気に戻った、としか、周囲には見えはしない。
「いいえ、止めておきましょう。前提を崩される口実にされては溜まりませんから」
意味深に毒吐いた。
彼の真意は、届かない。目の前の王にも。儀式の場を見て居る者の誰にも。そう。彼女に、すら。彼はそれに気付いている。だから、
「不協和な音を鳴らさないで貰いたい」
そう、振る舞うことにしたのだろう。
王の言葉を言葉と認めず、声と言わず、音と言い放つ。皮肉染みた、敵意に溢れる返答。王も、少年と同様に微塵も揺るがない。
「ならば、しきたりには従うことだ。叛骨者であろうとも、無骨者ではあるまいに」
王は唯、そう言っただけ。態度も対応も全く変えないまま。自身の前にいるのが誰であるか知っている王はそれでも微塵も揺るがない。
(酷く、歪だった。とても、共に血の繋がりを知る親子同士にはとても見えなかったもの。でも、こんなちぐはぐな遣り取りが通っている時点で…―私は気付けなかった。見誤っていた)
好転しそうにない雰囲気。いつまで経っても話は進みそうにない。それらは、中身あるようで、空っぽの遣り取りだから。まるで互いに相手を見ていない。それでも会話が成り立っているように見えるのは、二人共が互いに互いを測り間違えているから。
(だから私はここで、)
彼女が止めに入る。
(止めに入った。)
二人の間に体を割り込ませ、彼ではなく王の方を向き、
ピキッピキッ。
「王の仰る通りです。滞りなく進行を。どうか……」
この場の神に等しい王に、懇願する。少女の無機質な筈の声は震えており、彼女の口元は目元は、泣き皺の如く新しく罅割れていた。
小さな小さな音だった。しかし、彼女自身に痛みも肌への違和感も流血も無くて、彼女はそのことに、何故か気付かない。自身が罅割れたと微塵も気付かない。そんなもの、人の身にはありえないこと。だから、認識していなかった。いや、認識できていなかった。
観客席からはそこまで細かくは見えないし、音も聞こえてはいない。だから、王と少年だけが、それに気付いていた。
(私の変質が、意識することで表層に顔を出した、身体にはっきり出たのは、この時が最初だった。そしててそれは、座曳に火を付けたのだと思う。彼は本当はそこまで言うつもりは無かったのだと思う。そうじゃなかったら、先ほど抑えたりはしなかった。けれど、これで、決定的になってしまったの)
彼女の目の前の、彼の雰囲気が変わった。最初よりもずっと禍々しく、暗く、重い。俯きがちな顔は無表情になっていて、しかし、目だけはしっかり見開いていて、瞳孔は開ききっていて、瞬きも無く、酷く虚ろで。そんな目が、彼女を、真っ直ぐ、見て居いた。しかし、その目は、きっと彼女を映していない。今の彼女を通して、過去を、昔を、見て居るか、それとも、彼女という人間ではなく、彼女という物体を見ているだけなのか。
(彼は試合に勝っても負けても、この儀式という名の勝負には絶対に負けるのだって……。彼は本当に皮を脱ぎ捨ててしまったのだから。このときの私は未だ、自身が火に油を注いだ位にしか、自身のやってしまったことをそれなりに重くとも、微塵も致命的な行為だったとは思ってはいなかったのだから)
よく、分からない。そんな目だ。だた、決して普通の、平常な心境ではないだろうということだけは見紛えようがなかった。
(彼は、私の為にここに立ち、私の所為で負けたと気付いたのは、全部が終わって久しい頃だったのだから)
また後で次話投稿します。




