第百八十話 心透かす眼
「結。どうして、そのように私に、怯える、のですか」
(それは、不意を突かれたように言われた、全部、見透かされていたかのような言葉だった)
コトリッ。
踵を彼女の方へ向ける彼。
「忘却は仕方のないこと。貴方がそうしたかったからでなく、そうさせられただけのこと。ですが、」
コトッ、
一歩。状態をぶらりと揺らすような、力ない歩調。その方向は、彼女。数歩の距離しか元から無いというのに、彼は詰め寄るように、
「性質まで、変わってしまうなんてことは、断じて、ならないのです」
コトッ、
更に一歩。
「それは、他者になると同義。貴方が貴方で無くなることと、同義。嘗ての貴方なら、すぐさま、思った儘に口にしたでしょう」
そうして、
コトッ。
三歩。もう、息の掛かる距離。背を曲げ、だというのに頭を上げている彼の顔が、彼女の顔の真正面に、ある。虚ろな目が、彼女の深淵を覗き込むように凝視している。
彼女は、動けない。おぞましい何かに、見初められたかのよう。それが、彼女を刺激する。彼女の心を、脳を、記憶を。
消された筈の記憶の欠片。
彼女はその目を、知っていた。
それは、執着。在り様の強要。強いる服従。何故ならそれは、彼女が嘗て、今の立場に、贄に、選ばれた、この場所で唯一の、受動的に選ばれることによってのみ成ることができる、成らされてしまうことができる、特異な贄として、選ばれたときの、周りの大人と子供が彼女に対して見せた目と全く同質であったかのように思えてならなかったから。
(私は、そうやって、思い出した。消えていた筈の記憶は、これを機に時折噴き出て……。これがそんな最初の記憶)
しかし、その記憶の場面の中で、彼が他の大人たちや子供たちと同じような態度、表情をしていたのは、実のところ違うのだと、彼女は気付いた。
その疑問は、変質しようとしていた彼女の心を、繋ぎとめ、今に至らせる鍵となった。彼女がそのことに気付くのはずっと後。
(周りの大人たちやこれまで親しみを見せていた他の子供たちとは違って、座曳は、このとき、違っていたわ。表面上は同じ。演じて居た。仮面を被ったように。何かを押し殺そうと必死だったのだと、今なら分かるのだから。密かに背で震える手は、そこですぐさま私を逃すための無謀な、そして、無駄な足掻きを堪える為。時折ひくつく口元は、せめてそれでも態度は示せる、と崩れそうな表情を何とか留めるが為)
この時はただ、ぞっとするほどにおぞましいだけだった。
「『怖いわ、据曳』。『嫌よ。ふふふ。貴方に答えてあげる義理なんて有りはしないのだから』」
それは、似ても似つかない彼女の声真似。顔真似。そのとき露出した執着は明らかに狂気染みていて。そしてそれは、目の前の彼女だけに、意図的に彼が見せたものであると、否応なしに彼女は分からされた。
「そう、大人ぶった振る舞いで、付き合ってくれたではないですか。掌で玩んでくれたではないですか」
目は笑っていない。それ以外の顔の部位は笑っている。微笑を浮かべ、優しく、甘く、囁くような息遣いで言う。
どうしようもない。彼女は生理的に受け付けないとすら思い始めていたそれを、拒絶できない。その権利はあるというのに。
その理由も、彼の目だった。
(何故なら、目だけは、顕著に答えを示していたから。彼だけは、泣いて、いたから。喜んでいたのではなくて、絶望に崩れる資格すらなく、泣くことしかできない、無力な自身に、泣いていたから。私をどうしようもできないことにではなくて、私をどうしようもできないどうしようもない自身に、泣いていたから。)
記憶の断片の中の彼と同じように、そのとき目の前にある彼の目も、涙を浮かべていた。それは明らかに同質で。だからこそ、拒絶できなかった。
しかし、だからこそ、受け入れることもできなかった。禄に何も分からないということがますますよく分かってしまったのだから。
安易に流されては、それは嘘。彼女の変えられようとしていた性質が、未だ元の形を留めていた彼女の性質が、そうやって、無意識に判断を下していたから。
だから未だ、彼女はなされるがままなのだ。
そして、彼の両手が、
スゥゥ、ピトッ。
彼女の両頬に、触れた。
彼女は動かない。眉一つ、動かさない。
(私は、彼の言う通り確かに、)
「私はそれが、とても楽しかった。心地良かった。当たり前過ぎて、失うそのときが不意に訪れるまで、微塵も気付かったのですが……。薄皮一枚。その下はもう、変わり果ててしまっているのですね。貴方が先ほどまで被っていた覆いと同じ。見たくないものが、その下にはあった。私も、貴方も、もうとっくに、変わり果ててしまった」
(このとき既に、変わり果てようとしていたの。限り限りのところで辛うじて、気付けたの。昔の自身の視界を、そのときの感覚を、欠片だったけれど思い出したから)
スッ。
彼女の頬から離れてゆく彼の手。しかし、唐突にそれは再び、
スッ、
「ほら、こんなにも、冷たく、硬い」
彼女の頬へ伸びてゆき、また、触れた。そして、彼は彼女に語りかけるように言う。が、
「表情は、もう変わらない。このままでは、無機質な水晶そのものに、成り果…―」
それは、
「それまでだ。それ以上は、赦さぬ」
この場に立つもう一人によって遮られた。
今日も数話投稿予定。




