第百七十七話 過去、一度目の対峙
スッ。ニギュッ。
彼女は偽った。微笑み返して彼の手を取った。しかし、
「どうしました? 震える理由があるのでしたら今の内に言っておいてください」
偽り切れなかったらしい。彼女は唯、無言で微笑んだままだった。そうして、彼は彼女の言いたくないという意思を読み取って、追及はしない。
(だって、今の彼には、あのときのような、義父様に対する執念が、無い)
核心には、至らない。
そっと彼女は目を閉じる。瞬く間の逡巡。それは、彼女の想い出。もう、ずっと昔の、過ぎ去ってしまった、想い出。
・
・
・
未だ名もなき子供だった彼が、座曳という名を与えられたときのことを、私は今でも憶えている。思い返すだけで、震えるくらいに鮮明に。
それは、私が無力を初めて呪ったときの後悔の記憶。
それは、呪いに選ばれた私の、最初の希望の記憶。
それは、私が希望を抱くことを止め、今の私に至る記憶。
石造りの露天の闘技場。そこで行われるのは、例えば、武器を持った者たちの死闘や、人と人外の化け物との狩り合い。どれもこれも罪深き者の処刑だったけれど、たった一つだけ例外が存在していた。
それが、今日、この場だった。
未だ、決闘の場には誰も立っていない。観客席は満員になっている。そこには、子供以外の全ての領民たちが集まっていた。
ワァアアアアアアア!
オォオオオオオオオ!
ワイワイ、ガヤガヤ!
王、王、王、王!
素晴らしきかな、美しきかな、その献身は!
ウォオオオオオオオオ!
正に理想の子よぉおおお!
さて、あの神童は何処まで王に肉薄できるでしょうか!
だいたいこんな風に。未だ闘技場の端に立つ私の視界にそれらは映っていないから、光景としては記憶していない。
それでよかった、と心から思う。
だって、今の、全て知って見届けて憶えてしまっている私は、音だけのこんな、始まる前の場面の記憶ですら、既に怒りに狂いそうで……。けれど、ここで止める訳にはいかない。
彼らは無責任に、身勝手に、好き放題に、彼を侮辱する。彼の何も知っている訳ではないというのに。彼の表面しか知らない癖に。それどころか、唯、彼を何処までも都合良い、この都市の理想の体現のような子供としか、この都市と王の永遠の為に自らを進んで捧ぐ理想の贄、としてしか見ていないというのに。
(彼がそういう理想をなぞっているように見えるから彼を讃えているのであって、それが別に彼でなくてもいい。そういう魂胆が、今なら、理解できてしまう。だからきっと、私は、この数えきれない程に反芻し続けている回想を未だ、冷静に見ることが、できないのだから)
このときまでは、私すらも……、そうだった。彼以外にも、犠牲は、贄は、供進は、いくらでもいた。決して多くはないけれど、数か月に一度は必ずあった。
誰に強要されるでもなく、彼らは蒔となる。自身を捨てて、王という火を灯し続ける為の。だから、私は、他の人たちと同様に、彼ら自体には無関心だった。彼らが蒔になる為の儀式であるこの場にしか関心は向いていなかった。
いつから、そうなっていたのかしら。もう、分からない。ずっと昔からのような気も、ただ、私がそれを感覚として長く長く感じていただけだったのかも、曖昧に。
すり切れていた。
そう思っていたの。
けれど、違ったわ。
私は、すり切れてなど、いなかった。心が、渇ききっていただけ。そうなることで、自らの心が消えるのに、無意識に抗っていたのだと思う。
だって、そうじゃなかったら、
(慣れるようにすり切れることにもならなくて……。だから、何度も何度も思い知らされることになっているのかしら。本当にこのときの私は、本当に何も知らなかったのだと)
もうすぐ現れる彼を、希望とは認識しないで、済んだのだから……。
上記に挙げた各種大小問わない何れの見世物よりもその見世物はずっとずっと、大きな声を、観客を、声援を、目線を、多くの感情を、そこに集めていた。
未だ、始まってすらいない状態で。
未だ、そのときは紛うことない王であった義父様は姿を見せていない。
未だ、私の全てになった彼はそこにいない。
場を取り仕切る私自身が、こうやって黒い覆いを被されて、
それは、この閉じた空間で生まれ育った全ての子供たちが、そうであるうちに僅か一度だけ、平等に与えられる機会。だから、子供たちはここにはいない。未だ姿を現していない、権利を行使した彼と、立ち合う私以外の子供は誰も。
これはそういう儀式だから。自身が王より優れたることを示す、という。
それは、王との、智を以てしての決闘の権利。唯の子供が王に成り替わる為の唯一の術。この地の在り方を変える唯一の正当。
名乗りを上げた子供は独りで戦わなければならない。けれど、王も、そのときだけは独りの人としてその場に立つ。
負けた方は死ぬ。王であろうがそれは拒めない。それは、この都市が成立するときにできた、唯一の、王の上にある理。
それは、等しく対等な条件を与えられて始まるという前置きの、一見平等なようでいて、時間と経験と才という格差を確かに備えた見世物。
足音が、聞こえてくる。
カコン、コトン、カコン、コトン、
コト、コト、コト、コト、コト、コト、
近づいてくる。
二つの足音。一方はがっしりと重い、地に足ついた足音。もう一方は、一定のリズムを刻む、軽くも、急くような足音。
見下ろされる闘技の場へ、長く薄暗いトンネルのような通路を抜けて、もうすぐ二人が、やってくるの。そうしたら、この幕は取り払われて、私は初めて彼を、見る。
少なくとも、今の私にとっての、初めて見る、彼。
勝負の場として、対等の条件として、与えられるのは以下の三つ。
与えられるは領土。
与えられるは船。
与えられるは指揮権。
それらを使い、二人は、争う。古来海戦ゲームと呼ばれた、卓上の遊戯。本来命を掛ける類のものではない。遊びの一種。模擬でしかないそれは、儀式へと名を変え、形を変え、命掛ける実戦と最早変わりない。そして、そういう戦いであるということは、当然、対等である筈なんて、ない。
それは、一方的な、命の摘み取りなのだから。そういうものへと捻じ曲げられたものなのだから。そして、それをこの場の誰もが、異常だと認識していない。それが基準になってしまっているから。
そろそろ、場の騒がしさがぴたり、と止まる。二人が姿を見せるから。ほら。だから、より大きく聞こえる二つの足音。
カコン、コトン、カコン、
コト、コト、コト、
だからそろそろ、足音も、止まる。
カコン、コトン、カコン、コトン、コッ。
コト、コト、コト、トッ。
ほら。
(今でも、はっきりと、憶えているわ、座曳。たとえ貴方がもうそれを二度と思い出せなくても、この私だけは、憶えているから)
フッ、バサッ!
幕は、いつものように不意に剥がれた。
(だから、私は、――)




