第百七十六話 繰り返す虚ろ
「どうしてです、結。こんなもの、意味が無いでしょう?」
彼は厚く厚く作り繕い微笑んで、酷く惨めに柔しく優しく弱い声で、彼女に尋ねる。けれど、そうやって、彼が足を進め始めず、立ち止まった形になったということは、それは追及。
「わざと、そういう風に、歪んだ治療を、意味無き延命を、受け続けさせられている、この先の貴方次第の人たち。私を切り捨てると言う選択をしたときのためと、貴方への更なる錘としての、貴方の枷。当然、この船も含めて、私も貴方も、未だ、義父様の掌の上」
この遣り取りこそ無為だ。そう分かっていて敢えて彼女は彼に付き合う。
「けれど、狂った、のでしょう? もう、壊れているではないですか、どう見ても。水の中で私に対峙したあれは、明らかにアレでしたよ」
痛々しい微笑み。そうやって、座曳はいつも我慢する。姿勢を、態度を、外面を、崩さない。悟らせない。察知できる彼女は例外として。察知できる、通じ合っている彼女のそれに、未だ、盲目。
結局は独りなのだという、揺るがない思い込み。まるで信念のように、それは、座曳の中に聳え立っている。覚悟とは似て非なる何かでしかない。
「あの方は狂っても、未だ、王。こうなってしまって、次の後継も出ない儘だったから、貴方は呼び寄せられた。次の王の器が生まれるには長い時間が必要であって、でも、義父様自体の時間は計画に含まれていなかった。あの男が、島・海人が、事を起こさずとも、義父様の思惑に乗らずとも、貴方は呼び寄せられた。そして、冠を戴かせられるの。継がされるの。塗り潰されるの。そして、貴方もまた、依代となる」
彼女は、座曳よりもずっと前に、あらゆる覚悟を決めている。
「この、世界を、完全統制を、完全管理の枠組みを、続ける為に。あれらの生きた屍みたいに。注ぎ込んでも壊れない器たる、才覚を、資格を持つ貴方は、強要される」
座曳は驚かない。知らない裏を聞かされても微塵も。唯、目の前の現実が、あんまりにあんまりなことに、王になり切れないと、唯自身一人昔からずっと分かっていた彼は、一度贄にした彼らのさまを、彼女の言葉なんてよそに見ているのだった。
「ええ。そうですか」
聞いているが聞いていない。それでも問題はない。
「答える価値すら無い、かしらね。その通りね」
彼女は痛感しているから。読み取れるのは、座曳の芯が揺るがないということ。単純な話。独りであるということ。それは、誰のための自身でもない、そういうことだから。
(未だ、私の手は、届かない。彼の手も、私を掬い上げてなんて、いないのよ。未だ、このまま。けれど、このままでも、ここで終われば、もう先なんてない。可能性すらもなく、確定してしまう。私は、彼の為にひとつもなれず、全部、終わってしまう。彼が、……終わって、しまう……。王なんて装置の役をできてしまう程にその器は満ち足りているのだから、そんなものに、彼をしてしまっては、絶対に、ならないのだから)
二人共、見ているのは独りの風景でしかない。
この空っぽの街に、二人以外に唯一存在したのは、船員たちだけ。
だが、それらはまるで、人形のよう。繰り返し、同じような動きを繰り返す、船を修理するだけで、一向に、二人が声を掛けても反応しない、船員たち。
座曳は口を開き、上品な上っ面のまま、彼女に尋ねた。答え合わせ。結論。座曳の口にした以下の言葉の意味は凡そそれだ。
「これが、私たちが追われなかった理由、ですか。『何もかも全て、必要なものは抑えられている。お前たち以外は』ですか。実にあの人らしく、合理的で、厭らしい。直前まで言うかどうか迷っていたのは、私が抗えなくことを恐れて、ですか」
続く、意味のない会話。座曳も彼女も、その会話から得るものなんてないのだから。
「えぇ。私の呪いは弱まっているとはいえ、解けていない。解け切りはしない。義父様を斃さない限り」
(こう言えば彼はきっと……、)
「ええ。斃してみせますよ、今度こそ。それに、正攻法で勝たなくても良いのですから。それを一度目で私は思い知らされました」
(……あぁ、言ったわ。言ってしまったわね、座曳。もしかしてに、私は未だ愚かにも期待していたのね……)
「ですから上手くやってみせますよ。今度こそは、勝って帰りましょう。並んで、ねっ」
そう座曳は微笑を浮かべながら隣の彼女に手を差し出す。微塵も震えていないその指先を、瞳の奥の力の無さを見て、彼女は思った。
(そんな目をしないで……。《・》貴方は勝ったの|。確かに貴方は《・》勝ったのだから。義父様に。貴方も、義父様も、もういない領民たちも……。でも、私だけはそのことを憶えている……から。けれど、だからこそ、)
確信、した。して、しまった……。
「ええ」
"今"の彼では届かない、と。




