第百七十五話 先背負う選択
眼前の光景。赤黒色の散った石畳と四角な石の家々の壁面。黒く緑染みた染みが無造作にところどころに飛び散っていて、それらの高さは、床から、直立した人の頭の位置から少々上辺りまでに偏っている。
「ここは通過点。貴方が見るべきものはこの通りを抜けた先よ」
壁かと思われた場所は何も存在せず、偽りだった。この場所での痕跡を隠すが為の。それは、唯一人、座曳だけの為に、なされたこと。座曳が何も知らず、勝負の席につくという分岐が為の。
ブゥオオゥゥゥンンン――
後ろから吹き抜ける風。その風が、街のこれらの痕跡が刻まれてから、そうそう日が経っていないことを物語っている。
そこは、最初見た、無人で、唯、人が消えただけのもぬけの空となった、綺麗なままの、時が止まったような無人の街とは真逆という程に異なっていた。
死体は無くとも、衣の残骸や、壁の引っ掻き傷や、血の手形や、へし折れ刺さった歯の一部と歯形。血でこびりついた、毛束の塊。固まった緑色が混ざった乾燥しきって、臭い成分はとうに飛びきった吐瀉物。
いるだけで、死に引き込まれそうな、そんな場所。時間は進み続け、朽ちゆくさまが見て取れる、終わりの臭いが充満する、街。
「……」
(私の、選択……、ですか。見ないこともできた、と。もうどうしようもない、終わったこと。私はこの場にすらいなかった、これは、唯の、終わった過去の結果に過ぎない。私の手の、責の及ばない、私の管轄の外の、……、いや、私がいれば、こうならなかった可能性があるのだとすれば、結局のところ、これも、私の選択の延長にある、紛れもない、私の責の一端)
座曳がいた頃とは違って、街は拡張していた。倍程度では済まない。数十倍の敷地面積に。数十倍の人口を収容して維持し、着々と増やし続けていた。
彼女は言わない。それが、座曳という後継者が無いものとして、その代わりを作ろうとしたが故のものであったことを。それは本願を満たす結果は出すに至ってはいなかったが、やがて年月がそれを叶えてくれるのではないかと思わせる程に、大小様々な才が、そこかしこから芽吹いていたことを。
そして、それが、座曳が大きく関わっていた、あの島・海人の決断と行為によって大きく狂ったことを。拒絶と封印の膜は破れ、その中に封じ込まれていた厄災の発生源がその外に出たのだから。
遥かにそれよりは弱い呪いに蝕まれた彼女は、呪われていたが故に答えを直感するかのように感じ取っていた。封印の主が封じ込めていた呪いに向けた言葉の一端は、彼女たち、大小強弱問わず、須らく呪われた者たちには伝わっていたから。
それはきっと、封印の主の、意図あってのもの。無論、その意図は彼女には分かりはしない。主ですら、分かっていないのかも知れない。
何れにせよ、その時点で即座での答え合わせの術は永遠に失われている。時が来るまでは、決して分かりはしない。
「私は告げたわよ、座曳。貴方の選択に従ったのよ、座曳。先に背負う、という選択が貴方の答え、出は無かったの?」
感情の籠もらない声で聞かされる言葉は、座曳の心を抉る。心を、ぐっさり抉り刺され、抜かれ、
「責を放棄するのなら貴方はここで終わるべきよ。手伝ってあげましょうか?」
蹴り飛ばされるかのような。
「いいえ……。ここで死ぬのは、何があっても勘弁、願いたいですね。私も貴方も、死ぬにしても、終わるにしても、此処でない何処かでなくては。そうでなければ、何もかも、意味がない……」
(こういう惨が確かに存在しているのは、分かっていても、目にしたら、どうしても、心の奥底が澱みますね……。私は彼女にいつまでこうやって、泥を飲ませ続けるのでしょうか。……、これから先も、ずっと、そう、すぐさま唐突に訪れるかも知れない、ずっと先かも知れない、しかし絶対である、終わりのその時まで……)
だからそんな内心でそんな言葉を吐くのは、まるで足元に惨めに縋りつく、死に体そのものだ。
(……。終わりたい……、もう……。けれど、もう少しだけ……)
彼も彼女も……。
流れある、澱み腐臭を放つ河。そこは港のようで、水面へせり出した木組みの足場はボロボロでありつつつも、上を歩く二人を支えるだけの強度を保っているらしい。
ギィィ、ギィィ――
ギシッ、ギシッ――
彼女は座曳を敢えて先導させて歩かせる。そして、停泊している、船らしきシルエット。それには、クリーム色に、血色と苔緑色の付着物がねっとり、所々パリパリ張りついて固着したかのような厚い布が被さっているようだった。
「ここよ」
彼女が無機質な声でそう言いながら、座曳の背中を服越しに引っ張り、制止する。座曳が、そのまま、その布に向けて手を伸ばそうとしていたから。
「後ろへ、下がっていて頂戴」
そして、座曳を自身の後ろに追いやり、彼女はその布に触れ、強引にそれをその怪力で引き剥がすように取り去った。
バサァァァ――、パッ、バサバサバサ――、
彼女の引き剥がしと周囲を吹く風にたゆたう、一辺数十メートルの長さの四角く広大な布は、彼女が手を放すと共に飛んでゆき、
パシャァアアアア、ブクブクブクブクブクブクブクブク――
遥か遠くの水面に着水したかと思うと黄緑色の瘴気のようなものを発生させながら、溶け始めつつ、緑色の泡をぶくぶくと発生させながら、消えていった。
だか、そんなものよりも、座曳は、剥がれた布の下にあったものに釘付けになっていた。
それは、自身がこの海域へとやってきた際の、船。
そして、船員。これまで物音もしなかったのに、僅か十本の指も満たせない程度の数だが、確かに船員たちが、動き、せっせと、穴と割れと砕けだらけの船の上をせわしなく動き回り、修理、の真似事をしている。彼らのその動き自体が、船をめきめきと、バキバキと、痛めつけている。
彼らの表情も気配も、まるで健康に正常に活き活きと生きている、そのままだったというのに、その肌は、緑色に染まっていっては、突如それが退いていって、まるで巻き戻しのような動きをしつつ、最初の位置に戻って、また動き始めて、身体が、緑色に腐食されていって、崩れ落ちそうになって、すんでのところでまた戻り、何事も無かったかのように、唯、繰り返している。
彼女が、彼の傍まで歩いてきて、言った。
「鍵は、光。一握りの光でも、彼らに触れれば、彼らは、動き出す。何も知らず。彼らは何もかんがえられない訳じゃないわ。動いている間は、確かに思考している。自身が崩れてゆくさま、繰り返しているさまには、永遠と延々に気付かず、繰り返す。生き人形、いや、違うわね。繰り返す、まるで生きて居るかのような、貴方の連れてきた、もうただ可哀想で哀れなだけな、人形」




