第百七十二話 民無き領土
崖と岩場の折り重なったような洞を抜け、座曳と紫晶が辿りついたのは、青み掛かった壁色と冷たく澄んだ空気流れる、石をくり貫いて作られた、街、だった。
風も吹かず、一切の物音のしない、無音。
「……。紫晶。どうして何も教えてくれなかったのか、漸くはっきりしました」
「……」
「この可能性は見てなかった訳ではないですが、限りなく薄い。そう、思っていました。私をこの地へ再び引き込んだ時点で、無いと見ていい。喩え、街の外、頭上の海が、終わりそのもののような風景であろうとも」
二人の立つそこは、町の対岸。二人が立つ、洞の出口から対岸。そこから眼下。扇状の流れのない河川の先。奥に進むにつれて高く積み重なっていくような、段々丘のような作りの、薄く青い、石の街。本来、この場所からであっても十分に感じられる町の活気そのものである喧噪は微塵も感じられず、物音一つなく、静かで、だからこそ、
「ええ。そうよ、座曳。あの人は、貴方という最後の妄執が、気紛れにこの地に、終わりの寸前のこの時にやってきた機に、とうとう完全に狂ったの。だからもう、何もないの。貴方がここにいる、拘る、そんな理由はもう、何一つ、無いの。何故なら―…」
ポスッ。
いつの間にか結・紫晶の後ろに回り込んでいた座曳の手が、その口を、塞ぎ、抱きしめるように、折り重なる。
「いいんです、もう……。言わせてしまう意味なんて、最早何一つ無いというのに……」
座曳は、洞を出た途端、事態を咄嗟に理解していた。だからこれは、自身の弱さ。なすりつけるように、事実を再認するという重みを彼女に背負わせた自身に、そうやって、彼女に縋る。それは、慰めでなくて依存で、だからこそ彼女から一度離れたというのもあったのに、
(結局、私は、何も変わっていないのかも、知れません……)
(私はやはり、存在していては、いけないのかしら、ね……)
彼だけでなく彼女も共に、この有り様だった。
「座曳。もう、止めましょう。私たちが足掻く意味なんて、もう無いのよ」
しゃがみより掛かった、両腕。その左側から覗く彼女の顔と、声。座曳は虚ろな目をして、彼女が確かにそう口にした、幻覚では決してないのだと、認めざるを得なかった。こんな、折れてしまった彼女を、彼は見たくなかったから。だからより一層、力無く、彼女に体を預ける。自身よりずっと小さな、まるで少女を思わせるような華奢な体つきの彼女に。
「折れるに、決まっているでしょう。生きる目的の半分を失ったようなものなのだから。貴方が戻ってくる先ほどまでは、それが生きる目的の全て、だったのだから。それでも、僅かに何処か諦めきれなかった、貴方のこと。縋るように何とか生きていたのだから、許して欲しいところなのだけれど」
だが、彼女はそんな風に、微塵も揺らがない。壊れても、自立して立っている。彼女らしさの殻を纏って、彼女の形を未だ、取っている。その在りようは、有りさまは、他の誰でもない、生きているかもいないかも分からなかった、自分に向けてのものであって、
「駄目です。私が私であるが故に、それだけは、駄目です。そうする位なら、全て、投げ出します。今からでもそうできる。選択肢は未だ、あるのですから。それでもそうしない。そうできない。やはりだから、私は私の儘、悪くも良くも、私のまま、なのです。だから私は、貴方が、半分も損なわれるのは許せる訳が無いのです」
だから、口にした返答は虚勢そのものでしかない。
だから、彼女は、決定的なところでは折れていなくて、そこが自身と決定的に違うのだと、思い知らされる。
だから、彼は、一流のモンスターフィッシャーに、なれた。矛盾を自覚しているというのに、矛盾に壊れないから。だから、理外に立つことができた。
「だから、結・紫晶」
「ええ、座曳」
「僕の願いは、決まったよ」
「聞かせてくれるの? 今度は。くすっ。偽りは無さそうね。やっと私も、貴方が為に成れるのかしら」
そう彼女は、微笑んでみせる。まるで嘘のように、これまでの無表情がそのとき、崩れて、しかし罅割れた訳でもなくて、だからこそ、
(最初から、こうすれば、よかったんですね)
それがどうしようもない回り道だったと思い知らされる。
「ええ。私が望むは、海洋の都市。このような、最初から間違えていたような、逃避と隔離の末の、形だけのものではなく、光の下にある、海に浮かぶ、波打ち際の、都市」
座曳の夢の形。
「くすっ。それは素敵ね」
彼女はそれをやっと見れて、そう短くも、喜んでみせた。そして、そんな彼女の遥か昔の笑い方から、彼は一つ思い出す。
それは、彼女が、もっと、をせがむ時のものだった、と。
「素敵で、終わらせるつもりなんてありませんよ。私はそれを、当然の、ありふれたものにしたいのですよ。そうでないと、嘘でしょう? 結局のところ。この地と共に死蔵されている海の知識があれば、叶わないことではありません。欠けは、私のしてきた旅と、これから先も続く旅で埋めればいいんですから」
だから応えた。
「唯、ここを継ぐだけなんて、義務からも、諦念からも、もう、解き放たれたみたいね。貴方には、この場所への未練がもう見られないのだから。貴方はこの街が好きだった、と思ったのだけれど」
だけど、彼女の反応には寂しさが見え隠れしていた。彼女は未だ、思っているから。彼の旅路に自分は要らない、と。
「そうさ。好きだった。だった、だ。だけど、終わってしまった。守るべき民はいない。私のいない内に、理想の施政者、いや、理想の施政のシステムとして君臨していた、父が、守れなかった。なら、僕がいても結果は同じ。確かに悲しが、辛いが、ここには、悲しみの痕跡は見られない。街に血の跡も、苦しんだ末の傷跡も、微塵も残されていない。せめて、安らかに逝かせることを父は選んだのだと、それ位は、出来の悪い私にでも分かる。良くも悪くも、私は施政者として育てられた。そして、良くも悪くも、まかりなりにも施政者の目線でしか、君以外は見れないのですよ」
最後にふと漏らしたそれに彼女が反応する。
「だから、一緒に来てくれませんか? 私だけだと、不完全にも程があります。貴方の目線なら、私は、信じられます、から。どうしても、必要……、いや、欲しいんですよ。あってほしいんですよ、貴方が傍に。でないと、私はこのまま永遠に不完全な私の儘です。貴方がいるからこそ結局、旅路での変わらなさにも気付けて、やはり、私の鍵は貴方な訳で、ああいや、もう、纏まらないですね。らしくもなく、頭の中がぐちゃぐちゃです」
気付けば彼女はいなくて、
かくん、ガスッ。
そのまま前に倒れ伏す。目前にしゃがみ込んだ彼女が、いた。見下ろすように、遥か昔の、やんちゃだった、何処までも人間らしかった頃の彼女さながらに、彼女は天使爛漫に笑顔を浮かべながら、
「くすっ。貴方がこんがらがったそういう時って、最初の一言が全て、なのよいつも。だから、全部、伝わっているわ。行きましょうか。先へ」
彼女は、手を差し出した。それを掴むと、
ニギュッ。
彼女のもう片方の手が、座曳のその手を掴み、悪戯っ子のように笑い、
トンッ、ブゥオオオオオオオオオ――
跳んだ。座曳をその怪力で浮かび上げて、そして、
ブゥオオオンンンンンンン――、ザバァアアアンンンンン!
崖下の岩場を越えて、河川へ。飛び込んだ。
今後の話の進行ですが、座曳編終わらせてから少年編クライマックス終わらせてこの部は終わりにする予定です。




