---057/XXX--- 見えない何かに触れて
ペタペタノソノソ、ミュニュッ!
「んっ!」
章年は突然不意に、前方にある何かに当たる、というかめり込んだ。柔らかなそれに。何だか、落ち着く甘い匂い。汗混じりの匂い。何だかそれは普段よりもずっと濃く、だから少年は突然のことに、それだけ慌てることもせずに、ちょっと、おっ、とびっくりする程度で済んだ。
が、振れた対象はそうではなかった。
「ひゃっ!」
びくん。
その声を聞くまでもなく、少年は理解する。それがリールであることを。
(おっ、やっと追いつけたぁ!)
自身がリールの何処に触れたのかも理解してない少年ではあったが、リールの顔が見える訳でもないし、何だかよく分からない反応であったため、取り敢えずその頭をさっとその場から引かせることにした。その動作にはどうしても、頭を上げる動作が入ってしまうため、
「あひぃ!」
びくん。
当然のようにそうなってしまう。
「ポォ、ポンちゃぁんんぅ……はぁ、はぁ、はぁ――」
恐らくリールは振り向いた。そして、自身に何か言おうとした。そこまでは少年は理解した。が、そこまでだ。そう、リールが何だか息を荒げた理由を少年が知るのはどうやらまだまだ先のことになりそうである。
「俺、けっこう勢いよく当たってもうた? ごめんなさい……リールお姉ちゃん……」
何だか悪いことをした感じがした少年は、そう、子供らしくしゅんと謝るのだった。
それは、見えないからと、少年の幼さ故の珍事。
「大丈夫よポンちゃん。別に何ともないわよ、ねっ、ねっ!」
何だか少し慌てる風に少年を慰めるリール。無論今も二人は互いの姿なんて見えてはいない。だが、声も届くし、互いの匂いもするし、気配も確かに感じている。
だから、四つん這いで、少年が頭を向けて、リールが尻を向けて頭を捻らせて、会話は成立している。
「なら、よかったけど……。それで、リールお姉ちゃん。どうしてこんなとこで止まってるん?」
そうして、本題に入った。空気が、変わる。
「……。それはね、この先が出口だから、よ」
リールは間を置いて、それまでの浮ついた雰囲気など嘘であったかのように、そう、何か思い詰めた感じになってそう、重みを込めて言う。
(……、何やって、いうんや……)
少年は困惑した。自分がおかしいことを言ったとは到底思えなかったのだから。そして、リールがそんな反応をした理由も、それが何故か、今になってからなのも、少年を惑わす。
だが、軽々しく何か言うなんてことはできる雰囲気ではなかった。だからといって、沈黙が続くのは何だか怖いものであるので、
(じゃあ、前へ、や)
「じゃ、早く出ちゃおうよ」
リールの答えにそう少年が無理やり勢いを出して切り返すと、リールはすぐさま、
「慌てないでポンちゃん。落ち着いて聞いてね。えっとね、」
少年にそう、前置きする。そして、語り始める。
(……。先……。先へ進まず、リールお姉ちゃんが、ここで止まってたんやってしたんやったら……? もし、一旦、出て、進んで、それで引き返して、ここに戻った、んやったら……? だって、唯の行き止まりやったら、すぐ、言うやろう? それで終わりの筈や……。じゃあ、先には……、)
少年は、自身の甘い見込みのせいで、覚悟せざるを得なくなった。この先には、何かある。それは行き止まりではなく、先、であり、道であり、目的地そのものである可能性を、見たから。
(退くに引けない、それでいて、突っ込むことを躊躇させるだけの何かが、あるって、ことや……。良いものと悪いもの、その両方が、あるんや、きっと……)
「この先、何メートルか行くとね、突然白い光が途切れるの。そうして見えてくるのは、通路の終わりと、その外の、何か灰色の色々何か線みたいなのが走った場所」
リールの声から、重くどんよりしてくる。
「それで、そこはね、下へ続く、私たちが通れそうな大きさの穴があるんだけど、そこから下の部屋がよく見えるのよ。そこにね、シュトーレンがいるの」
(決定打……。そういう、ことか……)もう、分かったわ……。分かって、もうたわ……)
「どう見てもこの通路通れる体のサイズじゃないのに。そしてね、あのおじいさんもいるのよ、シュトーレンの傍に。シュトーレンはベットの上に寝かされていて、お腹が動いてるから息して生きてるのは確か。けど、意識は無いってこと」
陰鬱な感じすら漂ってきている。声は震えてきて、まるで今にも泣き出しそうなように、リールの声は力を失ってゆく。
「ベットと傍に浮かぶ例のおじいさん。それに……、二人を囲うように何十にも、魚人たちがひたすら並んでるの。穴から見える範囲では絶え間なく外向きに続いてる感じ。部屋の広さは分からない。その穴のある部屋から下までは恐らく4メートル程度だから、降りられないことはないわ。けど……。ってこと」
それでも言うのを止めない。つまり、逃げる選択肢は、ない。
「だから、一旦落ち着く為に下がったの」
だからこそそうやって、現状自身が採った選択を半ば自嘲する。それが分かった少年は、辛くて仕方がなかった。
「っ、……」
(……、くぅぅ……)
軽く言葉を口にするのは簡単だ。だが、それは何の支えにもなりはしない。唯、自身が楽になりたいがだけの言葉だ。だから少年はぐっと、堪え、飲み込んだ。
「で、落ち着いたら出て、ポンちゃん待ってようかって思ってたら、さっきみたいになったの。でも、おかげでずっと早く落ち着けたわ。ありがと、ポンちゃん」
きっと白い光の向こう側で、そう、リールは笑っている。白い背景の中、浮かぶ幻影。こちらに向かい合ったリールの姿。赤く染まって潤み滲んだ目元。零れた涙の筋、それでも優しくあろうと微笑むリール。その鮮明な幻影はきっと、現実と相違ない。
(そこで、笑うんか……。無理して……)
だからこそ、
(……)
この沈黙の間も、その微笑をリールが保っているであろうことが、
(…………)
悲しくて、辛くて、……少年は、自身が重荷になっていることを自覚する。
(………………)
そんなとき、少年はいつも、
(やったら、そんなん、もう、やるしか、ないやんけ!)
こうする。
「なぁ、リールお姉ちゃん。行こう。先ずは、それからや」
前へ進もう。
力強く、そう、言った。
「ぐすっ、ふふっ、うん、そうね! 行きましょ、ポンちゃん。付いてきてっ!」
しっかりそれはリールに伝わって、二人は再び動き出す。この場所でのけりをつける為に。




