第一話 仇魚
日が昇る頃、少年は目を覚ます。その日の釣りの準備をするために。この時代、釣りをするための道具は、都会以外では自作するしかない。
しかし、その技術を持つ者は非常に少なく、釣り人となることに対しての一つの大きなハードルとなっている。
少年は全ての釣り道具の作成と手入れを両親からしっかりと叩き込まれていたため、道具を揃えるところから独力で釣りを行うことができる。
いつもなら、手早く釣竿を作り、おしまい。しかし、今日は少年にとって特別な日だった。いつもよりも慎重な作業に、彼の手は少し力んでいた。
①直径数cm、長さ1メートルほどの材質不明の真っ黒な棒。爺ちゃん婆ちゃんの形見。丈夫でよくしなる。
②返しをつけた、三股に分かれた針。ここ最近釣った中で一番でかかった魚の骨を削って作ったもの。
③村人たちから魚の代わりにもらう糸。それを複数本束ね、魚の血をたっぷりと染み込ませてある。
全てこの日のための特別仕様。そして、さらに、今日は、特別の特別。もう一つ道具を用意することにしていた。
④釣り餌。大物を狙うにはほぼ必須。隠していた魚を使う。海水を入れたバケツの中で今も泳いでいる。
(爺ちゃんと婆ちゃんが教えてくれた大物釣りポイントが俺にはあるんや! 諦めんかったらきっと釣れるはず。今日こそやったるで!)
この場合のポイントというのは、対象の魚を釣ることができる場所のことをいう釣り用語である。
1月に1回、少年は大物に挑むことにしている。自分以外の家族を全て釣りで失っているのだが、やめられないのだ。それほど釣りが好きなのだから。義務だけ、生きるためだけが動機では到底続けられるものではない。
少年は、家族から毎日釣りの話を聞いて育った。
祖父と祖母はこれまでに釣った大物釣りの話を。少年はその話を聞くと胸が躍り、自身も大物を釣ることに憧れるようになった。尚、ここでいう大物というのは、海水面上昇前でいうところの、釣りにおける大物とは意味合いが違う。指すのは大きさではないからだ。
両親は、その日釣れた大量の雑魚の話を。少年はそれを聞くと胸が熱くなり、すごい勢いでたくさん釣ることに憧れるようになった。
少年は物心ついたときから生粋の釣り人への道を歩んでいたのだった。
「今日こそは何としても釣って帰るんやあぁっ!」
大声を出して気合を入れる。実は、これまで大物釣りを成功させたことは一度もない。しかし、決して諦めず、幾度となく挑戦し続けてきたのだ。
天気は昨日同様の晴天である。ポイントへと移動していく。
島北西部。南西部の砂浜とは異なり、体よりも遥かに大きいごつごつとした灰色の岩から成る岩場が広がっている。
その中でも最も海寄りにあり、四角くて上が平たい大きな岩。その上が足場となる。海面から数十メートルの高さがあり、その近くの海面には出っ張った小岩が生えている。落ちたら一巻の終わりの危険なポイントである。
焦らず慎重に立ち位置を決め、釣り針に餌を付けて、釣竿を一気に振り下ろす。
(爺ちゃんと婆ちゃんが教えてくれた大物釣りのポイントやっ。今日こそ、やったるでぇぇ!)
釣竿には全く手応えがない。ただただ時間は過ぎていく。いつの間にか天気は曇りへ変わっていた。空が徐々に灰色へ染まっていく。一雨ありそうな雲行きである。
(いつまで天気が持つかなあ。それに時間けっこう経つけどなんも引っかからんし、今日はあかんかもなあ……。それにしても――。)
不思議に感じ始める。かれこれ6時間は続けているが竿はぴくりともしないのだから。これまでそのようなことは一度もなかったのである。
(この島の周辺は釣り餌なしでも大物が掛かることのあるとんでもない釣り場で、腕があれば割と楽に釣り上げることができるって、爺ちゃんは言っていたよなぁ……。)
不安に苛まれてくる。一筋の汗が額を伝う。自分ではまだ祖父のように大物は釣れないのかもしれない、そろそろこの月一の大物狙いは終わりにすべきなのかもしれないと。そんな迷いと戦いながら、ただ釣竿を垂らし続ける。
少年が曇りの中、大物狙いの釣りをしていた頃、一隻の大船が入港した。村人たちは騒めく、そのあまりの大きさに。それは巨大な木の帆船、さながら大海賊時代のガレオン船のよう。
この世界では、船が唯一残された移動手段である。この世界で船というと木の船である。しかも、材料が不足しがちで数は非常に少ない。その上巨大なものとなれば一生に何回見られるか。
氷河全融解前の時代の鉄の船は幾つかの例外を除き、全て失われている。鉄の船があったとしてもそもそも燃料が確保できないのだが。
錨が下ろされた。縄の梯子が落とされてくる。それを伝って降りて来る一人の男。友好的な笑顔を浮かべつつ。
「皆さんこんにちわ。この船の船長をしています、島海人と申します。天候が優れないので、暫くここに滞在させて頂きます。」
男はその見かけとは裏腹に、丁寧な言葉遣いだった。一言で表すと、大航海時代の海賊。
髪が非常に特徴的である。額で二つに分けた長い前髪は側頭部の髪と合流している。そして、左側に分けた髪だけ、肩を超えた長さであり、体前面に出してあるのである。
さらに、その先数cmをエメラルドブルーに染めているのだ。しかし、後ろ髪は短い。
茶髪茶眼。口付近と顎を覆う程度に長過ぎない無精髭を高密度で蓄えていて、ラテン系の人相悪めの、しかし整った顔をしている。
その船の掲げていた旗には、巨大で何とも凶悪そうな姿をした魚が釣竿に食いついている様子が描かれていた。それは、世界を股にかけ、大物を狩る誇り高き釣り人たちの集団、釣人旅団の旗印である。
「もうあかんかあ……。」
肩を落とし、弱気になりつつあった。相変わらず竿に手応えはなく、天気も崩れてきたからだ。ぽつぽつと小雨も降り出している。空は、黒い雲で覆われてきてきており、辺りは暗くなってきていた。
「帰るか……。」
釣りを切り上げようとしたその時だった。
「!?」
僅かだが、竿を引っ張られる感覚。体をぴくんとさせ、手を止める。
(気のせいか?)
再び訪れた竿が引っ張られる感覚。先ほどよりも強い引き。間違いなく、獲物が食いついた感覚。全身から力が漲ってくる。
「よっしゃあ、やったるでええっ!」
両目を見開く。その目に火が灯る。
(なんやちゅうねんこれ……。)
糸を引く異様な力。軋む竿。必死に踏ん張り竿を引く。
(これ、気ぃ抜いたら、俺が逆に引き摺り込まれてまうわ。)
ただただ竿を引く。
パシャッ。
引っかかっていた大物が水面から姿を現す。まだかなりの距離があるため、その姿はぼんやりとしか視認できない。およそ30mというところだろうか。
ひたすらに竿を引く。全体重をかけて引くと、幸い、少しずつだが手元に引き寄せることができている。
(これまで、大物と勝負したことはないけど、これいけるんちゃうか!)
さらに手元に引き寄せる。およそ10mというところだろう。
パシャシャ。
「……、お前っ、お前っ、爺ちゃんと婆ちゃんを引き摺り込んだのと同じ魚――――ウイングエラガントユニコーンフィッシュ!!!」
前長約2m。体の淵が黄色、尾の淵は黒。それ以外の部分は真っ白。羽のような胸ビレ、刀の刀身のような30cm程度の角。そっと忍び寄り必ず後ろから獲物を角で斬り裂いて食べる、狂気の魚である。
(俺は負けられへん、今回だけは絶対に。釣りなんてものは、いけるときはいける、いけないときは次を待つ。普段はそれでええんやけども、今日だけは別や。何としても捕ったる、捕ったるんや!)
力いっぱい踏ん張り、歯を噛み締める。そして、獲物を今一度見据え、睨む。
バシャッ、バシャバシャ。
バシャシャシャッ、バシャ。
先ほどよりも力強い。獲物が跳ねてまた跳ねる合間を狙う。引く、力強く、引く。
(獲物まであと2~3mほどか。あと数10cm寄せられれば引き上げられるでぇ!)
少年は獲物は追い詰められているが、実は少年も獲物に追い詰められていた。天候が崩れ、風と雨に晒されて彼の体力は奪われる。
それだけではない。少年が立っている岩場は、平らでバランスは取りやすいが狭い。岩の中央に立っている彼の持てる余裕は前後5m程度しかないのだ。それを超えて動いてしまうと海へと真っ逆さまである。
(いけるか? いや、あかんこれやったら……いや、いけるいかんじゃない、いくんや。)
「いったれええっっ!」
雄たけびを上げながら竿を寄せ、
(今や!)
竿を海から引き上げた。
そこには暴れるエラガントユニコーンフィッシュがしっかりと釣り針に食い下がっていた。少年と大物の闘いは終わったのだ。その間およそ2時間。
「お爺ちゃん、お婆ちゃん、かっ、勝ったで……。」
(! やばい、くらっときた。本気出しすぎたわ……。)
勝ち名乗りを上げた後、急に疲れが押し寄せる。目力を失いそうになる。
(足がかくかくする。手は……幸い大丈夫やな。勝った証拠のこいつは確保せんとなあ。)
グイッと唇を噛み、踏ん張って、釣竿を砂浜へと大物ごと投げる。自身の身は省みない。
もう力は残っていない。当然のように少年は落ちる。背を向けて両手を広げ、海へと真っ逆さまに落ちていく――
「おい、坊主! 何共倒れになってんだよ。 死んだらお前の負けなんだぜ。」
そう言いながら少年の足を掴む男。誇らしげにそこに立つその男を少年はまだ知らない。例のガレオン船に乗っていた男である。すんでのところで助けられた少年は意識を既に手放していた。