第百七十一話 不意半奪
「時は、満ちました。今ほど、自身の未熟さに感謝したことなんて、ありませんね。お蔭で、機は手にできましたよ。結。やってください」
そう、座曳が大きく声をあげた。
パチン、ブゥゥオオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアンンンンンンンンンンンンン―ドォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――
この空間の境界が弾け裂ける音と共に、落ちてきた、うねる海水。それはあっという間に、
「なぁ、ぐぅぅぅぅぅぅ――ぬぅごぉぉぉぉぼぼぼぼぼ――……」
ドームを海水で置換した。座曳の予想した通り、突然の出来事に、不可視ではあるが確実にそこに存在するそれは対応できなかった。
声が届き、息を許す、旧時代の技術の産物である、海の味のする特異な僅かに黒灰色に色づいた液体。それは、その比重は海よりも軽い。それでいて、海に溶けることのないそれは、浮き上がっていく空気の塊のように、海水の中を、泡のように散りながら、浮かび上がっていく。
座曳は手足を不可視の鎖で結ばれたまま。だから当然、あっという間に、溺れる水に囲まれた。
(私の想像が当たっていれば、恐らくこれで――)
パキッ、ピキィ、ピキピキピキ、ビキビキビキ、ピキピキピキ、ピキンッ!
座曳の正面の椅子。そこに、頭頂部を禿げ散らかした、腰が曲がっている分だけ座曳より少し背の低い、しかし、座曳よりも筋肉質な、年を重ねた、白髪と眼鏡でありつつも、髭も眉も全く無い、そんな、透けるように真っ白な肌の老人が、海水に浮かぶことなく、座っていた。胸部中央から血色の罅割れを浮かべ、左手で頬杖をつき、座曳をその老獪そうな目で、ぎろり、と見つめて、口から泡を吹きながら嗤う。まるで、古代ローマの哲学者のような、白い長い全身ローブがふわりと揺らいでいた。
そして、
「ブクブクボコボコォォ……」
老人が、そのまま息を大きく吐くように目を閉じ、その体が椅子から離れて浮かび始めると共に、掌に握りこんでいた何かを、手放す。
ゥゥオオン、トンッ!
座曳は、手元に流れついてきたそれをすっと掴み取った。それは、半径1センチ程度の紫色をした、ガラス玉の中に、中央に向けて螺旋を描く黒紫色の虹彩を模したような構造物が浮かぶ、結・紫晶の魂と力と意志の結晶。
既に贄も肉も飽和した場という、想定外によって成った、彼女の贄としての空振り。そして、座曳の感知能力。だからこそ、流れを強引に引きよせることができた。その気を手繰り寄せ、どうしようもない不利を、穿ったのだ。
フゥオオオンンン!
その珠から発せられた紫の光が、座曳の体全体をすっぽり覆うように、球体状に覆った。そして、その紫光の球と海水の境界面で、
ギギギギギ、ビキッ、カァァッ!
何かが切れる音がした。
「すぅぅぅぅぅぅぅぅぅ、はぁぁぁ、すぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ、はぁぁぁぁぁぁ、すぅぅぅぅぅぅ――。取り敢えず、最初の賭けには成功しましたか。急ぐとしましょう、結。アレが、次の端末に入れ替わり、私たちを捕捉する前に、貴方の体を見つけ、奪還し、ここを出る手段を探さなくてはなりませんからね」
それは、自らを縛る不可視の鎖が切れた音。その証拠に、身体は、上へと浮かび始めていた。座曳はしっかりと珠を右手に握った。もう放すことのないように。
「息は、整いました。空気の確保はもういいです。それを、上へ上がる推進力に回してください。貴方が紫光を消したら、私は思いっきり、地面を蹴ります。そしたらすぐに、【ジェット機関】も全部発動させて、速度を一気に上げます。出ますよ、できる限り体力を節約して。こっから先は、もう、アレにも油断や手加減は無いでしょうから。結局のところ、貴方の体を取り戻さない限り、詰み、です」
座曳がそう言うと、紫光の球体は、シャボンが割れるかのようにぷつん、と消え、
ドゥッ、ブゥオオオオオオオオオオオ――
座曳は足元から上へと、両足で全力で蹴り出した。
ゥブゥオオオオオオオ、ブゥオオオ、ブチィン、
あっさり檻を真っ直ぐ上へと突き破った段階で、最後に方向が正しいかの確認と補正。そして、目を瞑る。
オオオオオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアンンンンンンンンンン――
急速に加速していく。息を変に吐かないように、そして、速度上昇による水との圧の上昇に耐えつつ、彼女の魂の珠をぎゅぅぅと握りしめ続け、そして、瞼越しに浸透してくる白光から、水面に近いことを確信する。
(【ジェット機関】は持ちましたか。半数程壊れましたが、結の方向補正もあって、上手く進路を保てていますね)
速度は更に上昇し続け、
ゥウウウウウウウウウウウウウウウザザザザババババババババァアアアアアアアア――
大量の水を纏い、巻き上げながら、
ザバァアアアアアアアンンンンン!
海面から、勢いよく、止まらず打ち上がってゆく。
「すぅぅうううう、結、お願いします!」
目を大きく見開きながらのその一声と共に、腰に残った【ジェット機関】全てがぽろっと崩れるように壊れた。更に、動画を停止するかのように、一瞬で、その加速は、止まり、速度は0になり、そして、すぐさま、落下に転ずる。
スタッ。
座曳はすんなりと着地した。体勢を崩すことなく。そこは、白い煉瓦でできた床面を持つ、周囲を灰茶色の岩場が囲むように聳え立っている、じめっとした洞窟のような場所であるようだった。
座曳が彼女と共に出てきた水面は、今座曳が立つすぐ背後にある。強い光が差し込んでいる訳でもないのに、やけに強く白く光る、半径3メートル程度の、円形のくり貫かれたかのような穴と水面が、そこには揺らいでいた。
端へと向かい、岩場が始まっている辺りの一つの緩く薄くくぼんだ感じの岩の上に彼女を置いて、座曳は、自身の衣服を脱ぎ、絞って脱水し始めた。
そうしながら、傍に置いた彼女の魂の珠に、困った目をして、心の声で尋ねていた。
(困りましたね。ここって、何処だと思います、結。私はこんな場所、見たこともないのですが……)
そして、そんな場所、座曳も、結・紫晶も知らなかった。聳える岩の先を座曳は見上げてみたが、ひたすら岩が続いているだけで、道らしき道はどこにも見えない。
(とはいえ、じっとしていても何の解決にもなりはしませんし、行きましょうか)
さっと服を着て、彼女の魂の珠を懐にしっかりと仕舞い込んだ座曳は、岩に手を掛け、進み始めた。




