第百七十話 力も知恵も劣ろうとも
「よくぞ戻ってきたものだ、我が息子ティベリウスよ」
上から、聞こえたその声に向かって、座曳は憤怒する。らしくなく、青筋を顔に浮かべ、目を血で滲ませるように、叫ぶ。
「その名で呼ぶなぁああああ! 僕の名前は、そんな錆びれた偽物の権威の名じゃあない!」
タンッ!
地面を蹴り出し、急速上昇する。檻のドームの天井。その方向は、何の変哲もなく、先に格子が広がっているだけ。だが、感じた声の波の方向は確かにそこだった。
透明にしかみえないが、確かにそこに、アレはいる。そう確信して、座曳は行動した。
(以前までなら、これだけでパンクしていましたね、私は。怒りというものに慣れておらず、忍耐も無かったですから。ですが、今は、違う。齟齬はありません。重要な記憶は失っていないことは確認できています。だから、私は、やれる。そう。まともに相手をする必要などないのです。それに、気配で分かります。アレが、今、結の実体を、その手に隠し持っていることなぞ)
そう。その過剰な怒りは、演技。
ゴォオオオオオオオ――
(届けぇええええええ!)
格子の光の揺らぎから、正確に、アレの姿勢を形を把握し、座曳は、結・紫晶の気配の最も強い座標に向けて、鋭く手を、伸ばし、握り掴み、引っ張り抜こうと――が、
スゥゥ、ジャリリリギリリ――
突如、その体を、首から、後ろ方向に強く引っ張られた。音から分かった。
ブゥゥアアアアアアア――
座曳は激しく肺の中身を吐き出した。苦しくて、のたうち回りたくなるような、肺への圧に耐えながら、心の中で、憤怒する。
(これを、忘れさせられていたのかぁああああ! うぁぁ、あああ、確かに、これなら、気付けない、気付けようがない! 私の、ここにいた過去の記憶から、この、不可視の鎖の存在を、飛ばしたのですかぁああ! ぐぅ! あぁぁ、どうしてぇぇええええ!)
「ギリギリリリリリ、ジリリリ」
激しく激しく、半ば白目を剥きながら座曳は、まるで溺れるかのように、首のその触れられない鎖に触れようと無駄に空振りつつ、もがきながら、歯をきしらせた。
(うああ、し、)
「古の賢者の名の三片のうちを譲り渡した我が息子とは、とても思えぬ振る舞い。お前は実に、青い。青々しく、致命的に足りていない。何にするにも結果を手繰り寄せるに足らない、半端な知恵、半端な尺度、だからこそ、見誤る。全て、見せて貰ったぞ。ふははははは、ふはははははははは――」
(しまっ……た……)
ボボボボボボボボ――……
そうして、座曳は意識を手放して――
(……、はっ!)
ギリッ、ギリリリリリリ――!
「クラディオス=プトレマイオスぅううううう!」
意識を取り戻しての第一声はそれ。
いる場所は、気絶する前と同じ場所の中。だが、様子は変わっている。灰色の石の椅子に、両手足を、不可視の鎖で繋ぎとめられて、座曳は座らせられていた。向かい合うように。だが、その、対面の椅子には、何も見えない。何もない。だが、確かにそこに、
「如何にも。我が名は、クラディオス=プトレマイオス。古の賢者の名の二片を持つ者。本来なら、お前に全て託すつもりだったのだ。だというのにお前は、それを拒んだ。それは、今となっては仕方のないことだ。お前は至らない。賢者の名に恥じぬ者でなければ、継がせる意味はない」
このように、いるのだ。そう認識を強める程に、食ってかかりたい気分は強くなり、座曳の手足の鎖は、座曳を押さえつけるように、軋み縛る音を鳴らす。
ギッ、ザラッ。
「無駄だ、そんな顔をして睨んでも。お前がモンスターフィッシャーという、人外の域に到達したとはいえ、それでも、ここの理を破れるほどではない。たかが知れている。お前ではなく、あの男がここに来ていたなら、結末は違ったであろうが」
(機も、時も、場も、全て、掌握、されてしまいましたか……。ですが、コレにはやはり、理解できないようですね。いや、目を向けないようにしようとしているのでしょうか。なら、未だ、終わった訳じゃあ、ないです。コレは何だかんだいって、私を確保したいようであるというのは、あのときから今まで、変わらないようですしね)
未だ、演技は続ける。こういった、足掻きの積み重ねこそが、思わぬ可能性を生むと、座曳は団で知ったのだから。が、しかし――
「狭い視野だ。それはあの男では矯正できなかったか。まぁいい。それでもお前は、以前よりは深くなった。抗うことすら諦め逃げたあのときとは、確かに、違うと見える。結局何処までいっても愚かではあるが、それはそれで、面白みであるともいえる。だから、それはもう止めておくといい。時間の無駄だ」
最初から、見破られていた。
「読めるのは、感情の記憶だけでだったのでは?」
そう、座曳は、そんなものどうということがないという態度を取るが、
「お前へのささやかな配慮というものよ。あの娘と乳繰り合っていたところまで、覗かれたかったのか、お前は。無論、今回は、帰ってきて変わることなく見せつけた愚かさの罰として、しっかり、覗かせてもらったが。獣の真似事すら下手くそだな、お前は」
敵わない。まるで、壁に向かい合っているかの如く、やることなすこと、不毛な結果に終わる。
(ですが、……何か、活路は、ある筈です……。ここまで結局、致命に至らなかった。どうしても失ってはいけないものは、今このときまで、失われず、取り返しがつく状態。こんな幸運に恵まれているのですから)
それでも折れないのは、大切なものの価値を思い知ったから。その為に、もう、引き返せないところまで色々と犠牲にしてきたから。
そして――




