第百六十九話 深蒼の水牢
(……)
ゴォン、ゴォン、
(…………)
ガォン、ガォン、
(…………、っ!)
ゴォン、ゴォン、ガォン、ガォン――
鈍く響き渡る、鈍重音。意識を確かに現実に戻した座曳は、
「ごぼぉぉ(結っ!)」
ブクブククゥゥウ!
そうやって吹き出した泡、それと共に感じる塩水の味の流れを味わった。そこは、仄暗い、海の水の中。体に感じる肌寒い感覚、自らが今動いたことによる、水の流れの圧。未だ、周囲の暗さに目が慣れておらず、禄に見えておらずとも、座曳は状況を理解した。
(……。帰ってきて、しまったのですか、私は……。あれは、走馬灯でも、幻影の類でもなかった、ということですね。体は回復させられていますね。それに、頭もしっかり動いてますね。なら、ここには、アレがいるということですか。私を待ち構えていた、と。一応、少し負荷を掛けてみるとしましょう。干渉がされているかどうか位は最低確かめておかなくては)
暫く経ち、座曳の目は、仄暗い蒼い暗闇が続くこの水中の様子を確かにとらえている。
(奇しくも、アレが言った通りに私はなってしまった。一部とはいえ、的中しています、結果的には。『お前は再び此処に戻るだろう。猶予はそう無い、せいぜい数年。愚かしくも、切り捨てることを、糧とすることを、できぬが故に。そうしてお前は、そのとき、今とは違って、頭を差し出し、屈服するだろう』)
海が蠢く音はしても、その空間には波はない。座曳の動き由来のもの以外は。体温も、少々の肌寒さを感じる程度である状態からは下がらない。座曳は、この空間を知っている。よく知っている。味わっている。もう嫌になるくらいに。
そこは、牢。深海の底、辺りを認識できる程度の光だけが確保された、深海という檻。水の格子は、唯の装飾でしかない。その先が、呼吸を許さぬ、この深度での本来の圧持つ水で囲まれていることを意味している。
(ですが、結が、生きている、という一点でそれは確実に外れました))
この場所の周囲を、薄光含む水泡が連なって巻きついた、太さ3センチ程度で、一辺10センチ程度のターコイズ色の白波混じりの波打った格子が覆っている。
(出られなくは、ないですね。ですが、出ても、上に登れば、この呼吸を許す海域からは、すぐに出てしまいますね)
そこは、平らな灰茶色の地面の上に、半径10メートル程度の半球形の天球が乗っているような、そんな空間。海水で満たされていて、にも関わらず息苦しさもなく、その水を、まるで空気のように吸い、吐く、そんな自身を見ながら、声の主が、まだそこにいないことに気付いた。
(……。アレの舞台に立ったなら、私では、勝てない。アレは、結をきっと、握っている。アレは嘘をつかない。誤認へと誘導してくるとはいえ、嘘は言わない。言えない。そういう生き物。そういう風にできている)
ブクブクブク、ボコボコボコォ。
大きく吸って吐いた水が、音を立てる。
(だからこそ、一旦、立て直す必要があります。場所は無理でも、時間と機は確保しておきたいですね)
ブゥオブゥオ!
腹に力を込めると、肺に吸い込んだ水が音を立てて、出た。
(私の精神を再構成してこうやって放置したこと、結を間違い無く人質に取って、私をきっとどこかで嘲笑っていること、後悔させてあげますよ。屈服させてあげますよ。そして、結を取り返してしまえば、後はどうとでもなるのですか…―っと。どうやら、昔の私に寄せられているようですね。なら、意識して抑えて努めるとして、それとは別に、記憶の欠けを確認する必要がありますか。慎重に、冷静に。そして、)
座曳の策とは、彼女。彼女さえいれば、ここから出られることを、彼は知っている。過去、逃げた際、そうしている。寧ろ、それしか手はない。そして、彼女を取り戻すことは、彼にとって必須。
(この機運を逃しはしない。積み上げた犠牲もあるのです。だからこそ、私は、これだけは必ず、成し遂げなければならない。なら、こうするとしましょう。場と時は結局のところ、取れません。ですから、機を確実に頂くとしましょう)
ブブククク、フゥゥゥゥンンン!
(ですが、私を、いや、何より、結を終わりの運命に縛り付けた忌々しいアレを)
ブゥゥゥゥンンン、フゥゥゥゥゥンンン!
(父と呼ぶには、余りにも)
スゥゥゥゥ――
(おぞましい!)
「いるのでしょう? すぐ近くに。クラディオス=プトレマイオス」
そう、座曳は、大きく声を響かせた。それは、座曳の父、座曳の一族の長、そして、座曳の願いの譲れない部分だけを頑なに許さず、理解しようとしなかった、憎悪の対象。




