第百六十七話 海を貫く透明な柱の中、おちてゆく
(……)
「もう、逃げないのね、貴方は。
(ええ。それだけはもう二度としたくありませんから)
「なら、次にどうすればいいか、分かっているわよね? 分かったわよね」
(……)
「駄目よ。分かっているのよ。そんなことをしても意味はないわ」
(……)
「時間はあげない。どっちにしろ、時間切れはもう間近よ。そういう鈍さは変わらないのね。貴方は気付いていないようだけれど。ふふ。その勘、未だ改善の余地あるみたいね。だから未だ未だ貴方は生きて頂戴」
(そうするしかないだなんて、分かっています。満足げに、……全然満足には程遠いですが、それでも、貴方に看取られて終わる、貴方が私よりも一瞬でも長く生きる、それが叶うなら、ここを出てからここに戻ってきた私にも意味があったと…―)
「さあ、早く、言って頂戴」
ゴォオオオオオオオオオオオオオ――
発した心の声を遮る彼女のその一言の直後、鳴り始めた轟音。
(!)
もう感覚の無い体が、感じてもいない足元が、酷くぐらつく感覚を感じた。ぞっとするような冷たさが込み上げてくるのはきっと、恐怖からくる、震え。
どれもこれも、錯覚。そうでしかあり得ない。そうに違いないと分かっているのに……、それは、間違い無く、座曳の知っている気配だった。それもすっかり慣れた気配。普段感じるそれとはどうしようもなくかけ離れているというのに、同一のそれだと直感してしまう。
(この気配は! 間違いなく、知っている!)
自らが恐らくいるであろう、船の甲板。その遥か下。船底より遥か真下から、どんどん、轟音を立てながら、大きくなっていく、脅威。
感知する。心が。それを。
「目も見えず、音も聞こえなくても、いや、だからこそ、よく分かるでしょう。それは、貴方の気配が感じさせている錯覚。けれど、間違いじゃないの。どこまでも正しいの。残念ながら、その感覚は間違っていないわ。それは、私の、あるかも知れなかった未来と同じ――」
(ですが……。何故、こんなことに|、そういえば……)
彼女の言うように、座曳はそれを疑いようもなく確かだと、実感してしまう。それは、座曳が、その気配の移動にも、一旦の消失にも、どういう訳か気付かなかったということに今更気付いた。
(あ……、クーさん……)
「正解。そして、時間切れ、よ。私は、貴方の為に死ねたら、貴方の命を先に繋げたなら、それで……よかったのに、なぁ……」
彼女の決して揺らがない筈の声が、酷く揺らぎ濁った。
(や、やめろぉおおおおおおお! それだけは、どうか、やめてくださいいいいい! うぁ、うぁぁ、)
ピキリ、パキィンンン!
(うあ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ")
彼女が見せた"もしも"。その理由。それを今更知って、座曳はとうとう、心が折れた。彼の命令は彼女に通る。絶対に。但し、彼の命令が彼女の行動よりも先であった、ならば。
座曳には聞こえないが、現実ではこんな音が、響き渡った。
ゥウウウウウウウウウウウウ、バキキキキキィイイイイイイ、バシャァアアアアンンンンンンンンンゥウウウウウウウウウウウ、ゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオ――
それは、船底が砕かれながら、船全体が、下から巨大な何かに突きあげられるように、空に浮かび上がった、音。
座曳の絶望と共に、儀式は、成った。
巨大な光が、遥か下から舞い上がる。暗く、禄に姿を見せないような黒い靄を纏ったそれは、船から自身をひっこ抜いて、その光を察知して回避した。
船は揺れない。船からは水飛沫すら垂れることすらなく、乾いており、突き上げられた状態の高さのまま宙に浮かんでいる。船体の傷はそのまま。
その光は、海をこじ開けるように広がり、船全体をすっぽり覆う、雲の上まで届きそうな光の筒となった。まるで半透明な巨大な白い柱の中にいるようで――とてもこんな血みどろな儀式の結末とは思えないように綺麗。
そうして、船は、動き始める。真下に向かって、真っ直ぐと。
海を貫く透明な柱の中、船は、おちてゆく――




