第百六十六話 口にできず仄めかしても
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つい今しがた通信によって知りえた情報がどうしようもないものであるというのだから。この咽込むような、緑色の瘴気と、服の上から、場合によっては皮膚に苔生すカビのようなそれらの正体を知り、船上で数少ない、動けて頭も働かせることができている存在である座曳は、焦っていた。
目前の敵も、同じ状況になっていて、手は出してこれない。だが、懐に入り込んだ敵は別。それは、完全なる第三勢力だった。気付いたときにはもう手遅れ。大量のモンスターフィッシュ、こちら側の仲間共々、それにより、活動を封じられた。
船に損傷はない。船員たちに今のところは死人が出ている訳ではない。だから、耐えればいいだけの筈だった。目的地である、この海の中、下に進んでいくために、この場で、様々な種類のモンスターフィッシュの雑多な群れを退ける力を持つこと。それを示すことが、座曳がこの船を、自分たちを、この先に入れて貰うための条件だったのだから。
隣に無力化され、カビに侵されている、その女性のこともあって、座曳は悩んでいた。彼女の持つその珠。波打つ海の光景を絶え間なく浮かべているそれを叩き割れば、中に封じ込められていた大量の水の出現と、それと共に起こる、真空を埋める為の周囲の空気と液体の移動により、船は、海を、沈むのでなく、落ちていく。そして、目的地に到着するという仕組みだ。
その女性は、座曳が置いていった己が愛する女性は、声も出せない程に衰弱しつつも、口の動きで、座曳に言うのだ。
"割って"、と。
迫り来るモンスターフィッシュたちによる包囲からの攻撃をいなし、逆に撃退し、その数を徐々に削り落としつつ、条件を満たす時が来るのを、待てばいい。その筈だった。
(……)
「これは、貴方が、黴以外の全てに十全に対処していた場合という想定での結末。どちらにせよ…―」
(救いようのない終わりが待っている、でしょう? 私の望みが、貴方を最も長く生かすことであり、それを何よりも優先した場合、でしょう?)
「じゃあ、最後まで見てみなさいな。そして、その虚無感、たったと捨て去って頂戴。そんなの貴方らしくないから。貴方って、どれだけ悲観的でも、前に進む人、だったでしょう。どれだけ遠回りでも、回り道する人だったでしょう? だからこうして、ここにいるのでしょう?」
(分かりました。止めろ、と言おうと思ったのは撤回します)
ザコは、何とか、動ける者たちが残っていたため、何とかなる。二人一組でしか動けない数十人が全滅。それでも、全滅はしていなかったから、座曳は責務故に、船員たちは自身と、未だ生きている者たちの危機に視野を狭めて集中していた。
座曳は電話の結果に、愕然としたところ。残っていた別のマストが倒れてくる。結・紫晶が動こうとするも、彼女も割とやせ我慢の限界であったようで、何とか座曳を即死にはさせなかったが、座曳と共に、仲良く、両足を下敷きに。
船員たちの残りの数からいって、救い出すこともできない。そもそも、今の、マストをなぎ倒した存在に、今度は残った船員たちは意識を集中させている。当然だ。座曳たちを助けようとしたなら、それがいる限り、全滅してしまう。
座曳の想定の悪いほう、新たな儀式達成用の大型モンスターフィッシュが現れたのだ。さっきまでの三体よりは格落ちするが、それでも、今の弱った彼らには十分な脅威で――何とか斃しつつも、彼らは全員、一歩も動けないほどに疲弊し、口から苔色の吐瀉物を吐きながら、それに喉を詰まらせるのを辛うじて避けるので精いっぱいだった。
そして、未だ、小型のモンスターフィッシュたちの追加は続いていて……。本来なら終わる筈なのに、儀式が歪んだ影響か、そうなってしまっていた。そう考えると、つい今、他の船員たちが辛うじて斃した三体目すら、儀式としては、意味はなかったのかも知れない。
なら、斃した大物三体を船体に括り付けることによる、儀式完遂による下への落下も、起こり得ない。つまり、船員たちに強いた苦戦の全てが無駄だったということになる。
無駄死に、犬死にだ。完全なる失敗。贖えない失敗。いや、違う。未だ、辛うじて一つだけ、終わりにしない、先延ばす為の方法がある。それなら、未だ、希望も残る。だが、それをしてしまうと、座曳にとってだけは、それは、完全なる失敗だ。贖えない失敗だ。
彼女が、彼女の生存が、儀式の核であることからして、儀式の場による、モンスターフィッシュたちの誘因という機能が続いている以上、やはり、どう見ても、彼女がその生を贄にすれば、儀式は完遂されるのだ。
船員たちは、動きの鈍重化が始まっていたが故に、それを防げず、倒れてきたマストに巻き込まれたり、体勢を崩して転んだ際の刺激によって、体の表面にそれなりに付着し広がっていた苔が活性化し、そのまま、甲板に体を縛りつけた。
攻めあぐねるのは未だ兎も角、守りに入っては言葉通り詰みであると知り、死力を尽くして、外に出た。そうして、待ち構えていた、普段の調子であれば容易く屠れる、比較的小さく常識的なサイズの混成のモンスターフィッシュたちの群れと戦っていると、雨風が再び強くなってきて、落ちた雷が
地面に臥す、座曳と紫・結晶。マストはなぎ倒されていて、二人は、重度の怪我によって立ち上がることができない。共に、両足の骨が砕け、歩行は不可能な状態であり、だからこそ、ふと思い出したその蜘蛛の糸は目前で切れたに等しい。
襲られる心配はない。この場にいる誰も彼もが、等しく、苔生し、限度に至った者たちから順に、緑色の黴粒となって、風化していく。始末された後であった粗方の大量の小型~中型のモンスターフィッシュがまずはそうなり、生きていた小型~大型のモンスターフィッシュが、その身の小さいものから順に動きを鈍らせていき、やがて沈黙した。
その過程で一部の中型~大型のモンスターフィッシュが、儀式の制御から外れて、船に直接攻撃をかました。
そんな有り様。だからこそ、使いたくなかったそれに、座曳は手を出したが、そのタイミングが、巡り合わせが、致命的に悪かった。
だから、こうしている。こうなっている。もう手はない。それだけしか、残されて、いない……。
(目は、瞑らないよ。どうして君はそんなに……)
彼女が焼け尽きる。
「あぁあああああああああああああああああ――!」
彼には止める資格も、力も、無いのだから、それは、嗚咽の叫びだ。
(愚直なんだ……。何処までも鮮明に想像した痛み。そんなもの、僕たちにとって、現実と何一つ変わらないじゃないか……)
「そんなの簡単よ。すぐさま、海へと沈むからよ。いつ倒れてもおかしくない位に痛んだマストが倒れてきての下敷きという線もあったけれど、こっちの方がどうしようもなさが出るでしょう?」
船の真下から、全体がすっぽり収まるように、海が穴を穿たれ、落下していく。昏い、海の底へ、落ちてゆく。墜ちてゆく。堕ちて、ゆく……。
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