第百六十五話 だからもう他に何も手段はなく
(……。無事ですか。……でも、感激も歓喜も、まるで浮かばない。悔しくて叫びたいとも思わない。何なんでしょうね、これは……)
虚無感。座曳は、それに浸っていた。
自身のいる船の左舷のへり。そことは逆の側、右舷のへり。その突き破られた穴の先、海から、未だ、彼女の気配は消えていないのを座曳は感じ、何とか心崩れず、意識を保った。
(どれだけ積んでも、足りない、至らない……。まるで運命に嘲笑われているようですのに、心はびくりとも揺れない。嘆きも悲しみも、安堵も喜びも、ひどく、虚しい。これでは、どうして私がここに戻ってきたのか、分からない……)
対して、モンスターフィッシュ共の気配は、先ほどの【飛白連】の群れのものも含め、全く感じなかった。
船員たちの気配は、十に足りるかどうか程度の人数の弱々しいものだけが感じられる。残りはもう……。当然、誰も動けない。唯一動けるかも知れない結・紫晶の気配は、気配感じた辺りの水面から微塵も動かない。動こうとしていないのか、動けないのかは断定できないが、前者のような気がすると座る曳は感じていた。
(手は、ありません……。最後の過程を終わらせる手段が、私には、ありません……。結は、一人では、海からは決して上がれない……。海に体の一部でも浸っていれば、声は出ない。生まれながらの贄として、そういう風になっているんですから……)
つまり、結局誰も動けない。
モンスターフィッシュの後続がもう、打ち切られているようであり、結・紫晶がそうやって海の中で存在していられるということは、儀式の残りの手順は、ありったけのモンスターフィッシュの遺骸を船に積む、縛り付ける、そして、その重さによって、沈むこと。
それを誰がするか? もう、誰もできはしない。人手が必要だ。そんなものは、どこにもない……。
(私は動けない。そして、感覚の欠如していく感じからして、どれだけ頭も耳も、働いていても、終わりは、近いでしょう。自然回復など、ありえない……。この黴。どちらにしても、除去する方法がありません……。)
ブゥゥ、ギィィ!
座曳の胸元の通信機が何やらノイズを発した。
(今更……)
唯、聞かされるだけになった、また別の手遅れ。胸元から聞こえてくる、通信機越しの、向こう側でのトラブルの音。
そして、それは、
『てぇことだ。そっちはそっちで何とかしろ。唯一の手掛かりがこれだとどうしようもねぇ。それに、そっちの状況を直接見た訳じゃねぇからお前がどうするか考える方がずっとまともな結果になるだろうさ。何か分かったら連絡するが、あてにはすんじゃねぇぞ』
プツリ。
一方的に続いた通信機越しの音声が途切れた。
(……)
たとえ言葉を発することができたとしても、きっと座曳は何一つ文句をつけることができなかっただろう。通信機越しに、ケイトに異常が起こるさまをリアルタイムで聞いてしまっていたのだから。
聞き、鮮明に、想像してしまった。ケイトが抱え込んでいたそれを。
唯一この事象について知っていそうな、幼児退行を起こした専門家……。そんなもの、どう考えても役に立つ筈がない。座曳はそう判断を下しながらも複雑な気分だった。
そういうものについて知っていたというのなら、どうしてそういう素振りすらケイトは一切見せなかったのか、ということ。
(……。私も含め、誰も彼もそうです……。この船に属する者たちはいつもそうです。誰もが心に何か抱えていて、そこだけは誰にも見せない。それでいて、それ以外は殆ど開けっ広げで。自身の抱えるものや、その核心にある遠い願望に掛からなければ互いが互いに常に受け入れて……)
もっと早く、何か言ってくれていれば、事態は違っていたかも知れない。だが、言えない気持ちも分からないでもない。だから、座曳の心中は複雑だ。
(歪です。何処までも。でも、だからこそ、僕たちは、真の意味では、助け合えてなど、いなかったのです。縋れない。寄り添えない。だからこそ、これは、必然で……。だって、これの存在を知っていれば、ここまでどうしようもなかったとは、どうしても、思えない……。ケイトさん……。恨みはしませんが、一言言うなら、そう……、それはあんまりですよ……)
「もう、いいかしら?」
(っ!)
すぐ傍で、聞こえる筈のない、はっきりとした声が座曳には確かに聞こえた。
ふと、聞こえた声。それは、彼女のもの。気配の位置が、海ではなく、知らないうちに近く。座曳が取り乱していなかったのはそのせい。だが、姿は見えない。船の上に上がってきた音も聞こえなかった。
だが、確かに、その声は傍から聞こえた。息が掛かる程の近い距離ではないが、恐らく、すぐ傍に、彼女の気配を座曳は感じていた。
「お手上げ、よ。座曳」
彼女は、そう、座曳に通告した。
(分かっていますとも、そんなことは、何よりも私が、分かっていますよ!)
叫びたかった。だが、もう、そんな体力すら残ってはいない。波の音も、いつからか、全く聞こえていないことに、座曳は今更気付いた。
(……。幻聴、では、ありませんよね)
「違う、と言って、信じてくれるのかしら?」
(信じますよ。気配がそうだと言ってます。一流のモンスターフィッシャー特有の勘、らしいですよ、これ)
「頑張ったのね、座曳」
(はい……、とっても)
「もう、休む?」
(まだ、です。まだ、休めない。貴方のその呪縛を解くに届くは分からないですが、何やら手を講じることのできそうな伝手を、漸く手に入れたんですから)
「遠く離れたところにいる貴方のお仲間のケイトさん、だったかしら? それとも、さっきの声を届ける道具の出所になった誰かかしら?」
(君は昔から、僕のことは何でも読めていたね)
「ええ。つまらなくなる位に、貴方って単純なんだもの。今のところはズルしたけれど、それ以外のところは別に、何となく、分かるものよ」
(はは、そうだったんですね。僕は単純ですし、割とバカみたいですからね。ここを離れて、それにやっと気付けましたよ)
「ええ、そうよ。なら、もう、分かっているわよね。それしかもう、見えていないのでしょう?」
(……)
「なら、貴方は最善を尽くしたんだって、納得させてあげることとしましょうか」




