第百六十二話 苔聳えし海割りの縦穴 後編
ゥウウウウウウウウウウウウウウ――
クーは、落ちてゆく。手足を広げ落下速度を下げようとすることもせず、まるで水への飛びこみでもするように、頭から落ちてゆくような姿勢に必死で捻って。目は焦りで血走って、恐怖で震えながらも、静かな怒りを抱かえていた。
(駄目だ……。見られた……。見据えられた……。上へなんてのはもう無しです……。間違い無い。あれが、この苔生す惨状の原因……)
碌に何か見えた訳ではない。五感が何かを訴えてきた訳ではないのだ。
落ちてきた土の欠片は、真上からではなく、穴の側面上部壁面の粉が落ちてきただけのものだった。渇いていたのは、部屋に入った直後からの湿気の喪失が大きかったからだろう。そうすぐにクーは推測し、答えを出していた。唯、そのとき、五感以外の何かで、頭上真上、穴より上、その天井か、その更に上。そこから確かに感じたのだ。
(またあれだ、いつものあれだ……。あれは、僕に、僕らに、害なす者……。気配がそうだと言っている……。あのただでさえ小さかったポーの声に、それよりも更に薄っすら、乗っていたんだ。気付かなかった。僕があんなにも慌てたのは、だからだったのか……)
ポーと同様に持っていた、同類の感覚。自分へ、自分たちへ向く志向性のある悪意への鋭い感知。
(そして、ポーの気配が消えたこと、それでも、死んだ風には感じない。でも、ポーがなすすべなかっただろうことを考えたら、)
上は見ない。間に合わないときはどちらにせよ間に合わない。そう、間に合わない。全力を、最善を尽くして、五分。そう、直感していた。
(こうする以外、ない……。だって、何一つ痕跡が残ってなかった……。他の船員たちのものも含めて……)
ウウウウウウウウウウウウウウ――
落下を始めて十数秒。速度を上げてクーは落ち続けている。
(自殺にならなければいいけど……。だけど、アレに捕まる方がもっと悲惨なことになる……。そう、思えて……ならない……。お父様以上だった……。だからあれは――意志ある人外に連なる何かだ……)
そうして、落下を始めて数十秒。
グゥォ、ガコォオオオオオオンンンンンン! バキキキキキメキメキミシッ!
上から、それが降ってくる。天井を、床を突き破り、脆い苔の壁をえぐり取るかのように崩しつつ、真っ直ぐ穴の中心を通しながら、落ちてくる。
(来た……! どうか……)
クーはそれでも上を向かない。どちらにせよ、向けない。速度は酷く上がり、禄に息も吸えない。また吐き気でもきたら、呼吸の面で詰む。
クーはそうして、この船に乗って初めて、心の中で何かに縋り頼るように祈った。ポーが生きているようにとも、自分をこのどうしようもない状態から救い出してくれ、とも祈らない。彼が祈ったのは、そう、自身の、運。
自身ではどうにもならない唯の不運で終わってしまわないようにだけ、彼は祈った。
ゾゴォオゾオゾオオゾオオオオゾオオオオゾオオオ――
ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ――
穴の中、落ちてゆく二つの音だけが大きく響き渡っていた――




