第百六十一話 苔聳えし海割りの縦穴 前編
「がぁ、ブハァァァァァ、げふっ、ぐほっ、っぅ、ぜぇ、ぜぇ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、げほげほっ、ぜぇ、ぜぇっ」
クーは穴の前で、両膝両手をついて、果て無きその洞を覗き込みながら息を激しく荒げていた。彼の息を荒げるのは、彼の想像。膨らむ嫌な予感。
そんな彼の不安に火をつけたのは、タルの落ちた音が全く聞こえてこなかったこと。反響する音も、砕ける音も全く鳴らなかったのだから。
この部屋に入ってから、正確には、クーが壁を砕いてから、いつの間にか、熱気や湿気や、苔臭さは消えていて、あらゆる音はちゃんとしていた。現に、
ザァァ、ザァァァアアア――、ゴゥン、ゴゥゥン、ザァァ――
ドタドタドタ、スタスタスタスッ、ビキビキビキ、ゥゥウウウウウウ、バォウ!
船の壁面から伝わってくる波の音、上から聞こえる多くの足音と、何か派手に砕けた音と、バランスを崩すにはかなり足りないが、確かに感じる揺れ。つまり、聞こえる筈であろう音はしっかり聞こえていた。
クーの耳元には、
ドクンドクンドクンドクン――
スゥゥ、ハァァァ、ハァ、ハァ、ススゥ、ハァァ、スゥッ…―、ゲホゲホッ、コンコンッ、カンッ――
とめどなく鳴り響く自身の心臓の音、足りない酸素を補おうと必死であるが渇いた咳音鳴り響かせる肺の音。
だからこそ一つ、致命的におかしかった。何故、落ちたタルの音が全くしなかったのか、と。そうして、もう一つタルを持ってきて落として、今こうして、それを再度確認し、疑いようもなく、この穴は異様な何かであるという結論が、出た、出てしまった。そういうことだ。
肌寒い風の流れが下からやってきていることが、その証拠。だというのに、潮の香りも、海の音もそこからはしない、聞こえない、というのは……。
クーはこの場所に来るまでに殆どの部屋を回ってきていた。当然だった。船長室は外の様子が窓から見える。その上、船長室くらいしか、それだけ大量の人数、恐らく大半が横になった状態での収容が可能ではなかった。他の部屋にいるとしたらばらけている。
だが、クーはここに至るまで誰とも会っていない。つまりもう……。
止まること無く組み立てられていく、そこで起こったであろうどうしようもなく嫌な展開の数々。結末。
自分が出る前ここにいたであろう数十人が、この部屋にいたままなら、淵に掛かることすらなく全員同時に落ちていってしまってもおかしくはない程度の、部屋の中央から大きく口を開いた、元の床面積の半分以上を占めるであろうその穴。それはきっと、海に続いてなんていない。他の何処かに続いている。そう予感、予想せざるを得なかった。
(生死は不明。形すら留めているか分からないですね。無傷で無事なんていうことだけは間違い無くないでしょう……。恐らく、いや、間違い無く、船内組はこの下、でしょうか。クーも……。すぐ飛びこむべ…―)
「がぁ、ブハァァァァァ、げふっ、ぐほっ、っぅ、ぜぇ、ぜぇ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、げほげほっ、ぜぇ、ぜぇっ、くぅ、ふぅ、うっ…―、」
と、急に酷く咽せ、雨後の崖先のように崩れた手元。思わずバランスを崩して、前へそのまま飛びこまされそうになったクーは、
「おぅぅつぅぅ」
へそを見るように頭を背を丸め、浮かんだまま縦に一周回ってみせ、
「くぅぅおおおぬぅぅ!」
下を噛みつつも、体を右へ捻り回転させる。そして伸ばした手で、
ガシッ、
ボロロロッ……。ロロ――ロロッ……。
何とかへりにつかまった。左手だけ。辛うじて凌いでみせた。見事なもので、派手さはあったが、そこに綺麗さなんて微塵もない。ハードで泥臭い、自身の体を十全に使いこなすかのような精密な動き。弱っていてもそれ位やってのけられるのが、彼なのだ。未だ子供でありながら、もうそれだけのことをやってしまう、できてしまう。彼がどれだけ修羅場を乗り越えてきた叩き上げであるかが、その動きには濃縮されていた。
咄嗟で間違う奴は、死ぬ。運よく生き残っても次で死ぬ。そういうもの。それでも今日の今までモンスターフィッシャーとして生きてきた、そうせざるを得なかったとはいえ生きてしまってしまえた彼は、こんなものでは死なない。
彼自身もそれを分かっていた。自身が今死ぬのならば、この短時間に肺に根付いて、皮膚をまだらに犯し、指先を湿った土の塊のように脆く変えてくる、それのせい。
指の感覚がもう禄になかった。
(あのモンスターフィッシュたちの苔の胞子のような崩壊。あれが起こるのが、僕の予想の通りなら、恐らくそろそろ、不味いでしょう。指に負荷をかけ続けるのは。落ちて下を見に行くなんて一か八かは後でいい。酷く苦しくなるときとそうでないときの差も大体分かったし、知らせる必要があります。座曳さんなら、これらの情報を加えると、何かいい考えを出してくれるかもしれません。それに、僕一人で下に降りるのは流石に無謀です。さっき落ちてしまっていたならそれはそれで仕方無いと割り切れたでしょうが)
指先に力を入れる。未だ崩れない。大丈夫と確認し、足で、正確には爪先辺りで正面の壁面を蹴り押す。
フゥオオ、
指先に強く力を入れる。この壁面が脆いなら、これで、登るための足場を深く作れる、と判断して。
ボボボロッ、ゴドド、スゥウウウ、
「っとおっ」
ウウウウウ、ゴボッ! ゴボッ!
無事突き差した両足先に加え、左手拳も
ゴッ!
加えた。が、溜め息をする間もなく、
(ふぅ。っ…―)
「ゲホゲホゲホ、ゲホゲホゲホッ、ゴホッ、おぶぅおお、ゲホゲホゲホッ、ガホゴホッ、ペェッ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ――、……」
酷く咽せた。左下横を向きながら口から激しく吐き落とした。そうして、そこも上手くやり過ごしつつ、激しくなった息を整えながら考える。
(ここにいることも、苦しさを強めているということですか。上の方が確かにましでした……。……。急げば結局全て取り零してしまう……)
そうして後ろを振り返るように虚ろな穴を見下ろして、落ちていきたくなったが、それでも、理性で堪えた。すぐさま前を向いて、拳と足を突き刺しながら上へと登り始めるが、
パラパラパラッ。
(ん?)
二歩程度分進んだくらいで手足を止めた。頭上から少しばかり渇いた土が降ってきたような。それが頭に間違い無く掛かった。
そうしてゆっくり上を見て、
「っ!」
小さく声を漏らしたかと思うと、
ボッボッ、ツスッツスッ!
右手を壁を押すように抜き左手も壁を押すように抜き、右足左足を壁から抜きながら、思いっきり斜め後ろ方向へ向けて、蹴り出した。




