第百六十話 苔の壁の先は……
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、ゲホゲホゲホッ、っ……。はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――、ゲホゲホッ、ゲホッ」
船長室とその隣の部屋、その二つの部屋への入口へ、あと数メートルという距離。そこでクーは立ち止まり、激しく息を切らして咽せながら、唖然としていた。目の前に忽然と物音もなく現れたそれは、一瞬で、クーを正気に戻してしまった。
(これは……、壁? 苔の、壁?)
それだけそれは衝撃的なものだったということだ。先への道は完全に塞がっている。隙間すらなく、まるで、土で埋まった通路のよう。
先ほど聞こえてきた、妹の声。それすら嘘だったように、辺りは静まり返っている。波の音、船の揺れる音、甲板の他の船員たちとモンスターフィッシュたちの出す音も、何も、聞こえてこない。自身の激しい筈の鼓動の音も、完全に消えている。
クーは緊張を強めた。気付けば手は酷く汗を掻き、寒気すらしてきていた。
「ゲホゲホッ、ゲホッ……、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」
抑えていた咳を放出してみると、それは確かに響いた。自身の苦しげな息と共に。唯確かめるためだけにそうしたのだが、思った以上に苦しかったようで、クーの息遣いは一段と深くも早いリズムを刻んでいた。それでも収穫はあった訳で、
(音を吸う、苔の壁……。そして、何を吸うか吸わないかは自由自在、ですか。……この通路を強引に突破するのは無し。何か分からないものに触れたくなんてない。なら、正面からじゃなくて、横から)
クーは通路を引き返す。足音は微塵も響かない。
(確か、真っ直ぐ戻って右に曲がって、すぐ右手の部屋。ドアを開いて、)
扉を開ける音すら鳴らず、無音。そこは四角い物置部屋。
(扉を抜けて、)
薄暗い部屋の奥半分に下から上まで何段も空のタルが積みあがった、12畳程度の正方形の部屋。元から埃被った部屋だから、そこで咽て出る咳は、
「ゲホゲホゲホッ、ゲホゲホッ、ゴホッ」
埃のせいか、苔のせいか。というのも、この部屋に入ってから周囲に舞い始めた、薄緑色の苔色の埃。それのお蔭で、普段は真っ暗なそこが、僅かながらに光を帯びていたのだが。
(タルを抜けて、徐々に前へ。しんどくてもやらなくては。急ていは事を仕損じる、だったかな。座曳さんが言っていた。準備はちゃんとしないと。ここは行きの道であると共に、帰りの道でもあるんだから)
タルを退けながら進んでいく。この場所が後の退路になるかも知らないということもあり、蹴とばしたり転がして散らかす訳にもいかず、体力を消耗しつつも、手を動きを緩めない。
(徐々に前へ)
タルを動かす音も当然、微塵もしない。唯、クーの咳咽る音と息切らす音だけが響き渡るばかり。妹のことを頭に浮かべないのは、この不意に得た冷静さを失わないように。クーは団での旅で、多くを見てきた。多くの歓喜と、それよりもずっと多くの嗚咽を。だからこそ、知っている。今の自身が得られる可能性がある、歓喜。それは恐らく、嬉し泣き、自身を呼ぶ妹を抱きよせ、生きていることを、この上なく有り難く思い、必死の頑張りと、綱渡りの幸運に感謝する。そんな、ビターで綺麗な、顛末。
(ぅぅ……、体が熱い。うっあっっ……、うぅ)
「ゲホゲホゲホッ、ゲホゲホッ、ゴホッ、うぐっ、ぶふぅぅ、ガホガホゲホゴホッ、すぅぁぁ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ――」
(はぁ……頭に血が昇りましたか。落ち着かないと。僕しか、今こっちには来ていない筈です。だからこそ、確実に、やらないと)
心の声の言葉遣いが乱れる程に心は疲れ切っていて、体もそうで、その場に崩れるようにして、四つん這いになって嘔吐した後、クーは灼けるような痛みのする喉を外から抑えた。それでも息を止めるなんてできないのだから、苦しくとも息をする。吐いたそれにすら臭いはない。さっきまでよりも粘り気があるような感じであり、水分が足りていないことを自覚する。口を拭いながら、立ち上がる。
(そろそろ、今度こそ、意識……飛びそうですね。そう時間は無い。この先にはきっと、ポーがいる。僕を、待っている。いないで欲しいと思っているけど、これまでの経験から、こういうときって、悪い方に予想というのは当たる。座曳さんも言っていた。僕も、あの人ほど見事にとかは望まないけど、取りこぼすようなヘマだけは、絶対に、)
タルを持ち上げ、力を振り絞る。自身の胸の辺りまでの高さがあるタルを持ち上げる。
(したくない!)
思いっきり正面の木の壁に向かって叩きつけ――
「っ!」
ズッ、ボロロロロォォォォンンンン!
タルの描く軌道は、壁をそのままあっさり砕け散った。木片の崩れる音とは思えないような、全く別種類の音を出して。それは土壁の崩れるような音。壁の木はもう辛うじて形を残しているだけという位まで強度が下がっており、その先にあった苔の壁は、あの通路のものと比べ、薄く脆かったのだ。
そのままクーは振り回したタルに体ごと持っていかれるように壁の先へ。クーの手からタルは離れ、前へと転がっていく。
ゴロッ、ゴロロン、カッ、…………。
「……。あ、穴……。それに、これは……?」
すぐさま起きあがったクーは唖然とした。そこは、緑の苔か土、多分、苔。それによって覆われた、閉鎖された部屋と、巨大は底知れぬ穴が、大きく口を開けていたから……。




