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モンスターフィッシュ  作者: 鯣 肴
第二部 第二章 苔生す嵐
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第百五十九話 苔生す侵:急

 直撃を避けるように躱すことができたのは、僅か四人。比較的若めな、筋肉質で肉付きのいい、黒肌の低い声の女性がそのうちの一人。残りは、この惨劇の少し前に目を覚ましていた初老の痩せた男性と、避けはしたものの利き手である右手を肘から下溶かされ持っていかれつつも痛みが全くないことに恐怖する背の低い中年の男性。そして、残る一人が、輪から出て、壁の端でもたれかかっていた少女、ポーである。


 彼らは全員、構えた。三人の大人は周囲を見渡すように、それぞれ別方向に散開を始め、一人の少女は背後すぐそこにあった出口から離れ、大人たちが未だそんなに離れずいる中央へ走っていく。


 誰一人そこから逃げるでなく、殺気を全開にし、そしてまた一つ、気付いた。恐ろしいくらいにそこが静かなことに。自分たちの足音が今全くしなかったどころか、波の音すら聞こえていないことに今更気付いた。そうして、自分たちが十全などとは程遠く、外で動いていたときよりもずっとしんどくて、あらゆる感覚が靄が掛かったかのように鈍くなっていることにとうとう、気付いた。気付かなければ、無駄に苦しまず楽だったかも知れないのに、彼らは優れていたが故に気付いてしまった。そして、詰んでいる、ということを悟った。


 今、自分たちは、捕えられ、生を握られているのだ、と……。


 スゥゥゥゥゥ、ヌゥゥゥゥ、フゥォ、フゥォォ、モワォォ。


 空気が、暗緑色に、光差す舞い散るホコリのようにまばらにその存在を主張しながら周囲を照らし出す。たった今一瞬で空気の流れが消えたことに彼らは気付いた。


 何かで密閉するかのように囲まれた、と。


 熱が、漂う。湿気が充満する。やけに熱い。自分たちの体の内からも外からも、蒸されるかのように、熱い。


 皮膚に感じた嫌悪感。むず痒い感覚。かきむしろうと、彼らは行動をシンクロさせるように爪を立てたところで、


 ビキッ、パキッ、サァァァ……、バチュッ!


 爪が割れ、剥がれ落ちていき、床に着く前にそれは空気の緑の塵の一つ一つに融けてゆき、傷口から、指先が裂け、弾ける音がした……。


 音。だからこそ、彼らはまた、慌てた。当然痛みはない。聞こえる音とそうでない音がある。だからこそ、意見を突き詰める必要がある、と更に互いに近くへ駆け集まって、


 …………、スッススッ、ムスッボスッ、モスッ。

 …………、スッススッ、ムスッボスッ、モスッ。

 …………、スッススッ、ムスッボスッ、モスッ。

 …………、………………、ポスッ、トスッ。


 足元を一斉に見た。はいている靴が苔生し、底から崩れ始めていた。床は厚い苔で覆われており、そんな苔の地面に大人たちは2センチ程度足裏を埋めてしまっていた。


 爪も含め、少女だけが無事。


 未だ現れない敵。しかし攻められている。だが、何もかも唐突で、彼らは展開についていけなくなっていた。見誤った。だって、そうだろう? 相手は未知。そんな、得体の知れない未知が、それもモンスターフィッシュという一流の未知を数多く相手にして生き残ってきた彼らを、出し抜いてきた未知。この海域についてから恐らく、長い下準備をして、こちらに何かしてきた相手。


 なら、当然、即、逃げるべきだったのだ。


 


 


(――と、今に至る。何故少女はそんな風に思索する時間があるのか。それは実に簡単。そこにはもう少女だけ。少女はもう、逃げ切る望みなんてとうに捨てている。なら、戦うしかない。だが、それすらもう、禄にできそうにはなかった。膝下辺りまで溶けきって、へばりつくようにその苔の地面に溶かされていく。足首より下が溶けきるより前よりもずっとその速度が遅くなっているもの恐らくその理由)


 ゥオン、ゥオン、ポコッ、パララ、パァァ、パシンッ、ゥオン、ゥオン、ゥオン、ゥオン――


 何かが近づいてきていた。


(少女は視線を感じていた。重々しくへばりつくようなねっとりとした視線。巨大な生温い舌が、肌の上を舐めまわるようになぞっていくように感じる。それが感じる視線のせいなのか、溶けゆく体のせいなのか少女にはもう分かりはしない。痛みなく、遅足に死は近づいてきていたが、気が変わったようで、もう終わりにするらしい)


 目は既に見えなくなっていた。痛みなく、唯、息苦しいだけ、熱いだけの筈なのに、少女は酷く寒けを感じ、震えていた。


 感じる、生暖かな空気の塊。酷くカビ臭く、咽た。


 ゲホゲホッ、ガヒュゥ、コヒュゥ――


(そうして少女の肺は、とうとう崩れ落ちるように風穴を大きく開けてしまった。それだけはしないでおこうと決死で抑え込んでいた、兄を呼ぶ叫び。それをしなかったことを、今更悔いてどうなる……。もう……、駄目……、)


 地面にへばりつき、何とかまだ動いたのは、


 ズスッ、ググッ、パラパラ、


 右手のみ。その指の先から、崩れ、苔色の土に、成り果てていきながら、少女は最後の力を振り絞った。最後の最後に、今までの我慢の我慢、意地を曲げ、心折れ、叫んだ。それは、声にならない、後悔溢れる惨めな叫び。


「クー、たす……け……ぇ…………」


 ボロッ、ボトンッ、ザァァァ……。






「ゲホゲホッ、っ!」


 通路を走り続けていたクーは足を止めた。無理やり息を咳を我慢して。


「……………………。ゲホゲホッ」


 しかし、それは、彼にとって、価値ある行動になったらしい。そのときは……。


「……。ポー? いるんですね! …………。ゲホッ」


 そして再びクーは走り出した。目的地に近づく程に、咳と咽せが酷くなることと、熱い湿気と苔臭さを感じ、クーは嫌な予感を強める。更に無理をして速度を上げた。


 もう既に手遅れだとも知らずに……。

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