第百五十八話 苔生す侵:破
手遅れ。座曳のそれは、二つの意味でそうだった。その一つ目というのが、これである。
「ポーォ~、ポォォォ~~、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、げほげほっ、っぅぅ、ギリッ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――」
ドタドタドタトタドタドタ、ガッ、ギッ、スッ、ドタッ、ドタッ、ドタドタッ、ドタドタドタドタ――
船内を走り抜けていくクー。その顔色は酷く悪い。咽るように、緑混じりの吐瀉物を時折撒き散らしながらも、届くかも分からない呼びかけの為に喉を酷使しつつ、禄に足を止めず、駆け抜けていく。行先は当然、一つ。だからこそ、そこには――過ちが横たわっている。
時間を少し遡る。場面は当然、船長室付近。残った者たちの行く末――
(気付いたら、薄暗い緑苔の檻の中。だからもう、手遅れ、だった……)
それは、現実に向かい合う為の、ポーなりの足掻き。頭の中にまるで今の状況が本の一節でもあるかのように、年不相応な大人目線の文章にして、心の中で声にする。
「ポー、あんただけでも、どうにか逃げ延…―」
(幼子を庇う、ある勇敢な若い女性。自身も疲弊し、その身を苔色にやつし、息をすることすら本来苦しい筈なのに、意地でもそんなそぶりは見せず、辺りにいる者たちのうち、最も優先すべき弱き者、唯一の子共である幼げな少女を守った。だがそれは、意味がない。少女の靴の下、踵から先は、無いに等しく、苔そのものに成り果てていたから。少女は声を出せばいいのに、言えばいいのに、言わなかった。たとえそうしようと、)
パチィィ、ブゥゥゥオオオオオオオオ、ボチョッ……。
(結果は変わりはしないと……、分かってしまっていたから)
比較的若めな、筋肉質で肉付きのいい、黒肌の低い声の女性が、何かによって派手に吹き飛ばされ、そのまま、上下左右前後を囲う、厚い厚い苔の壁へめり込んで、
(今のが最後。少女をかばう最後の大人。何故なら、もう、)
「あぶふぅぁぁっ……」
ツゥゥゥゥゥ、スゥゥゥゥゥゥゥ、ポロッ、ボロボロ、ツゥゥ、ドロォォォ……。
叫ぶ暇すらなく、溶けるように、命持たぬ緑色の泥に成り果てた。
(それが、この場に残る、死体すら含めての最後の大人だったから)
その場所の広さは、周囲の床と天井と壁がこうなる前と同じ。船長室と通路挟んで向かい側の部屋を合わせた二つを繋げた広さ。
視界は悪く碌に見えない。せいぜい、1メートル程度までが目に映る範囲。2メートル程度先は辛うじて見えるかどうか程度。明かりも無く、閉じていて、それでいて、苔自体が光を放っている訳でもないのに、そうやって1メートル程度は周囲が見えるのは、明らかな異常。
モンスターフィッシャーたる彼らの目がそれに見合った高い視力と暗視力を持っているのだとしても、これはおかしい、と誰もが実感できていた。未だ動けない者たちの為に残った者たちは首を傾げていつつも、唯、暗くなっただけ、と思っていた。照明は元からつけていなかった。窓から差す光は元からかなり弱かった。だから、別に気にしなかった。
それが命取り。
普段の彼らなら、すぐさま動いていただろう。そうしなかったのは、疲労による思考の陰りのせい。そして、彼らに少し前から根付く、悪意持つ苔の、せい。
未だ、右も左も上も下も前も後ろも、苔に一面覆われているなんてことには未だなっていなかった。だから、気付いて動いていれば、兎に角逃げることくらいはできた筈なのだ。
寝て居た者たちのうちの数人が、眠ったまま激しく咳込み始めた。それはひどく騒がしかった。しかも、近くに顔を近づけなくては、横になっている誰がそう咳をしているかは分からなかった。
だからこそ、腰を低くし、床に手をつき、彼らを踏んだり蹴飛したりすることのないように、意識あり体を動かせる数人は、数十人の眠り人たちの様子を一人一人確認しようとし、
ゥフゥゥゥウウウウウウ、ボシュゥアアアアアアアアア、ドチャッ、ドチャドタッ、ビチャァァ――
ゥフゥゥゥウウウウウウ、ボシュゥアアアアアアアアア、ドチャッ、ドチャドタッ、ビチャァァ――
ゥフゥゥゥウウウウウウ、ボシュゥアアアアアアアアア、ドチャッ、ドチャドタッ、ビチャァァ――
ゥフゥゥゥウウウウウウ、ボシュゥアアアアアアアアア、ドチャッ、ドチャドタッ、ビチャァァ――
ゥフゥゥゥウウウウウウ、ボシュゥアアアアアアアアア、ドチャッ、ドチャドタッ、ビチャァァ――
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ゥフゥゥゥウウウウウウ、ボシュゥアアアアアアアアア、ドチャッ、ドチャドタッ、ビチャァァ、ブスン……。
数十人の眠り人たちが連鎖するように破裂し、粘り気を帯びた湿った土の臭いのする緑の液体を撒き散らし、残った断片もすぐさま崩れ、原型すら残さなかった、そんな噴射をドバっと浴び、この場での終わりを運命付けられてしまった。




