第百五十話 苔生す侵:序
曇天の空の下、
ブゥゥゥオオオオオオ、ガララララララララ、ゴロロロロロオオオオ――
冷たい風の音と遠雷が響く。先ほどまでの夕焼けと空の平穏は逆回しされたかのように、ここに踏み入れた最初の状態へと遷移してしまっていた。いや、それ以上に、厳しい気候に気象に変動したというべきか。
ザァァ、ザァァァァ、ガコン、ブシュゥゥ、ガコンガコン、ザァァ、グゥオン!
本来夏である筈なのに、真冬の北の地のように寒い。
激しく揺れ、波吹き付ける船の甲板の上で、数十人足らずの彼らの殆どが、地面にその身を投げ出したまま、動きを封じられている。
彼らは追い詰められていた。
寒さに体の動きを鈍らせられていたからなんてものは関係しない。彼らは似非でない、正真正銘の一流だ。だから、今も、こうして、肉体の何処かしら一つすら失うことなく生存している。その肌が白く青ずんできたり、唇が紫色になったりしているなんてことは決してない。
大量のモンスターフィッシュの死骸が、船の周りには折り重なっている。波が寄せると共に、沈むことなかったそれらが、船の横っ腹に押し付けられてくるのだ。小型で群れを本来為さない種類の、真に一流のモンスターフィッシャーであればよほど油断しない限りは個人でも対応可能な種の混成であったのだから、それらが今、こうやって命を失っているのは当然のこと。しかし、
ギィィ、ギィィ――
波の音を遥かに上回る、船が死骸の重みで軋む音は絶え間ない。船はそれだけ軋もうとも罅割れる気配すらない。数多の冒険を繰り広げてきた船なのだから。
だから問題は、
ギィィ、ギィィィィ――
それが、波以外のものによっても押し付けられているということ。
死骸を押し退けることすら、食い散らかすことすらせず、そんなもの目に入っていないかのように、血走った目をしたモンスターフィッシュの大群が押し寄せてくるのだ。船を囲む海上の四方から、死骸の数倍の数量であり、多種多様性を増した、モンスターフィッシュ供の混成大群が、見渡した視界の果てまで続いているのだから。
その中には、三体の巨大なモンスターフィッシュも紛れている。センカンソシャクブナの幼体らしい個体がそのうちの一体である。
せいぜい、座曳たちの乗っている船の半分程度の大きさだったそれに関しては、出現と同時に、座曳の指示による同時迎撃で墜とされていた。それから遅れて、同時に現れた二体のモンスターフィッシュ。そのうち、明らかに危険度の高い方を仕留め、残りの一匹の相手をしようとしたところだった。
仕留めた一匹は、【テイルウィップブレイクシャーク】と呼ばれている。鞭状にしなる一本の尾を持つ、珍しく旧時代のどの種から進化したかが同定されており、全長30メートル程度、尾がそのうちの20メートル程度を占めている。そう、オナガザメである。"船割り"の肉食魚と知られる、大概のモンスターフィッシャーに、捕獲なんてもってのほかと言われる危険な魚である。
もう一匹は、未知の種である。座曳含む船員たちは、それにも当然脅威を感じ取った訳だが、結・紫晶が、『あの子には触れては駄目。この子は、唯、周りの真似をするだけ。その身にぶつけられた、攻撃と感じたものを優先的に真似して、攻撃してきた者にしっぺ返すだけ。だから、斃すのは最後にして』と、二匹の優先順位に船員たちが一瞬迷った隙に言ったからだ。
コノハウオを大きく薄く、紙のような厚さまで引き伸ばしたかのような体をした、海に浮く、縦数十メートル、横数百メートル、厚み皆無な、巨大な布切れのように見える、目や、申し訳程度についたひれが無ければ決して魚には見えないであろうそれを後回しにした。
座曳たちの対処は何も間違ってはいなかった。唯、足りなかった。それだけのこと。唯一、その未知の種に対して知識があるらしかった結・紫晶の観察眼がモンスターフィッシャー未満でしか無かったこと。
未知であったが故に、その魚の表面に付着していた、緑色の藻のような何かと、それの妙な位なおとなしさ、そして、そもそも、【テイルウィップブレイクシャーク】があっさりその身を海に横たわらせたことや、【センカンソシャクブナ】の幼体が、たった一度の一斉攻撃で落ちたこと。気付く機会は、幾度もあった。
だが、船員たちは、モンスターフィッシュたちと長時間継戦し続けていた訳で、体力も気力も消耗していた。その消耗の速度が、普段よりもずっと早いことにすら気付かずに。若い者ほど、激しく消耗していたことに気付かずに。そして、最も長いこと休んでいたとはいえ、座曳は死にかけた訳で、その頭の血の巡りは本調子ではなかった。
だから、それは当然のように――起こった。
その残っている巨大な一匹に比べたらたかが知れているモンスターフィッシュたちを一掃しようとしたら、船員たちの手先は狂った。皆揃って。
暴れ出すその弩級モンスターフィッシュよりも、彼らは、自分たちの体が浸食され、その自由を奪われつつあることに気付き、動揺した。
苔。緑の苔。それが、息を、口と鼻の中を、肺を、いや、もっと深くを、浸食しているらしいことに、気付いたから。だが、もう、遅い。
ゲホォォ! ネチャッ!
ゲホゲホ、ゴホォォ! ネチョビチョッ!
ゴォォォォ、バリメチニチィィィィ!
突如押し寄せた吐き気に従えば、その吐瀉物の色と質感と臭いは人のそれでも、海のそれでもなく、草と土混じりの緑色のぬめりだった。血は、緑色に濁って、発酵した牧草の臭いを齎した。血管越しに浸食し、皮膚へと生え現れたそれらは、身体を地面に縫いつけた。
その巨布のようなモンスターフィッシュの表面が、急速に緑色に色づいていくと同時に、ぽろぽろと、ぼろぼろと、その身が崩れ始めていたから。他のモンスターフィッシュたちの身にも、それの根付きと芽吹きが始まっていたから。その巨布のようなモンスターフィッシュのように崩れてはいないが、明らかに体力の損耗を見せ始めたのだから。
それらは、苔生し始めた。あっけからんに、活動し始めた。根付いた宿り木に対して、この海域の全生物に対して、侵攻を、始めた。
その浸食の外にいるのは、今ではもう、座曳と結・紫晶のみ。そして、恐らく、その状況も長くは続かない。そして、その通りに成り果てる……。
目途がついたので報告します。1/10 午前に次話投稿します。




