第百四十七話 人担いし不沈の理
戦いに出た船が大海原で、その舵を止め、帆を畳み、その場で、戦う。そんな、有り得ない状況が今、この海域で、この船を中心として、できあがっている。それは、古今東西において、有り得ないものである。戦において、船というのは、移動する為の足場、陸の延長としての役割を必ず持つ。人は陸地の生き物だ。それもまた、古今東西変わらない。
だから、船という足場が一切動かないということは、四方八方を幾重にも包囲されているに等しい。敵は人ではなく、言葉なぞ通じる筈もなく、手心など加えて貰える筈もない、野生の怪物共。そして、ここは、敵の本拠地である海の真ん中。敵の数は未知数。敵の勝利条件は明白で、こちらのは酷く曖昧。
スパァ、プシャァァァ!
バコーン、ボコン、ガコガコガコ、バタパタパタ、パタッ、……。
チィィ、またひっそり乗り上げていやがったか。
だが、外の者たちは集中を切らすことなく、へこたれることもなく、唯、ひたすら、目の前の脅威と戦い続けている。
だから、船内に残っていた二人も、共に用を済ませた以上、外に加勢しない訳にはいかない。静観していても、特に問題ないと分かっていても。
コト、コト、コト、コト。
スルッ、スルッ、スルッ、スルッ。
普段の歩調で進む座曳と、緩やかに滑歩する結・紫晶。
「僕が戻ってきた理由として、十分でしょう? 結」
「座曳。微塵たりとも答えになっていないわ」
座曳に対し、相変わらず結・紫晶は微塵たりとも声も表情を揺るがしはしない。
船長室を出て並び歩いていた二人が耳にする音は、どんどん大きくなっていく。それは至極当然のこと。彼らが向かっている先が何処であるかがその答え。
キミに任せとくのが一番無駄が無さそうかなぁ。
スゥゥィィ、スパァ、バタッ、ボトッ、……、プシャァアアアアアア!
いや、……お前がやれよ……。得物的に、俺は一体ずつが限度なんだが……。
コト、コト、コト、コト。
スルッ、スルッ、スルッ、スルッ。
普段の歩調で進む座曳と、緩やかに滑歩する結・紫晶は同時に足を止めた。そこは、甲板へと続く扉の前。
「なら、しっかりと見て頂くことにしましょう。心の準備はいいですか?」
と、座曳が扉に手を掛けながら尋ねると、
「ええ。開けて頂戴、座曳」
結・紫晶は間を開けず答えた。彼女が無表情で無抑揚であっても、彼女はそう、確かに答えたのだから、
ギィィ!
彼はそう、扉を開けて、
スルッ、スルッ、スルッ、スルッ。
コト、コト、コト、コト。
彼女を先に通して、自身も出て、閉じる。
ガコン。
前線へと、降り立った。
ブゥオオオオンン!
ギィィィィ!
当てて当然。だから。次、次ぃい!
雷鳴は既に止んでおり、黒雲は薄れ、霧は薄らいでいた。それでも、遥か向こうまでは未だ見渡せる程に晴れてはいない。だが、それも終わりに近づいているであろうことは明らかだった。茜色の光が、空の一割か二割程度、上から掛かり始めている。
座曳は、自身の意識が落ちる直前と比べ、外の光景が進んでいること、他の船員たちに体力の消耗以外の損耗は見られないこと、自身のものとは趣が異なりつつも自身が抱く以上に理想的な連携を見て、胸を張り、隣の彼女へ横からその顔を覗き込むように尋ねる。
「どうです? 狂った練度でしょう? でも、当然のことなんですよ。一発外せば、十中八九、そこで終わりなんですから。彼らは、死なないどころか、その肉体に動きに差し支えるような障害を抱えることすらなく、生き延び続けているんですから」
だが、彼女から返ってきた言葉は、彼の想像していたものとは趣が違っていた。
「腐っても、貴方が選んだ船、ということね」
「腐っても、ですか? 流石に私でもそれは抗議せざるを得ないのですが、一応理由を聞きましょう。貴方は私とは、思考の深さが一段上ですしね」
彼はにこやかにしていつつも、声には僅かに震えが入っており、拳を後ろで握り締めている。
「誰も彼もが、傷だらけ。体じゃなくて、心が。立ち止まったら死んでしまう。まるで、マグロみたい」
「マグロ、ですか。それ、どっちかって言うとシャケじゃないでしょうか? それに、幾分と旧い喩えですよ。マグロもシャケも。ここは、魚に喩えるなんかより、人としての、いや、海の狩人としての、素晴らしい意思を、人として形容すべきでしょう?」
「違う。マグロ」
座曳は結の目に映る、こめかみをひくつかせる自分を見つめ、そして、漸く、気付く。
「あぁ、彼らは先を考えていない。そういうことですね」
彼女はそっけなく補足する。
「ええ。望んでそうしているものね」
そうして、互いの顔を見つめ合う。表情を変えやしない彼女とは違い、座曳が笑った。彼女の分も合わせて。とても嬉しそうに笑ってみせた。
「ふふ、分かってたんですね、やっぱり。いいじゃないですかそれで。それこそが生き抜く条件なんですよ。昔話なんて引き合いに出すもんじゃないですね。あ、その誘導もわざとですか」
彼女はそれに対して答えるのではなく、彼に催促する。
「ねぇ、そろそろ、働きましょう」
「ですね」
彼は微笑みながらそう答え、彼女に背中を向けてしゃがみ、両手を腰後ろ辺りに置き、昔したかのように催促する。
ガスッ。
体を放り出すように座曳に預ける。彼女の体重が、彼に全て掛かった。彼女の手が、彼の両肩上後ろから、首の前へと、輪を作る。がっしりとしがみついている。首に掛かる。平時の彼女の軽さ故、彼女が彼にせがんだ故の、変わらぬ合図。座曳は立ち上がった。
ガスッ、ガスッ、
「苦労、したんだ」
マストを登る座曳に、背中の結・紫晶が言った。小さな声で。抑揚は無かったが間はあった。
ガスッ、ガスッ、
「ええ、たっぷりと。でも、その価値はありました。ここで扉開けた私たちに反応して隙なんて作っている暇なんてないと即座に判断し、揺るがず、集中の先を間違えないのが、彼らなんですよ」「
ガスッ。
「彼らは真に一流です。だから、私はこうやって、前もっての説明無しでも、彼らを信頼して、こういうことができた、という訳ですよ。貴方、全部分かってて乗ったでしょう? 欲しかった実感は得られたようですね」
彼は振り向くことなく、そう、嬉しそうに答える。マストを登る手はいつの間にか止まっていた。未だ中腹辺り。頂上へは未だ遠い。
「手が止まっているわ。ほら、早く登る。座曳、貴方、そういうところは治らなかったのね」
「手厳しいもので…―」
彼がそうやって振り向こうとしたのを彼女は止めた。彼女のその一声が、彼を制止する。
「いつまでも場違いでいてはいけないわ。さっさと登りなさい」
「はいはい。分かっていますよ。そろそろ大物がお出まし、と来そうですしね」
ガスッ、ガスッ、
「気配、分かるようになったのね」
「ええ。そうなっているからこそ、僕はこうやって、五体満足で生きていて、今こうしていられるんですから。名実共に、僕は、貴方を拾い上げるに足りると思いますよ」
ガスッ、ガスッ、ガスッガスッ、ガスッガスッ、
彼は速度を上げ、上へと登っていく。
彼の背に体預ける彼女。先ほど彼が振り向くのを止めたのはきっと、こうして今、彼女が人知れず彼の背で口元の氷融かしたのがその答え。誰に見せる訳でもない、答え。




