第百四十五話 未だ、届かない、未だ、終わってはいない 前編
「その手は何ですか、結」
そう、座曳は、尋ねた。普段通りの柔らかな物腰で。
ギリリリリリリ――
後ろから彼女の両手に、軋む程に強く、右手首を握られているというのに、強引に振りほどこうともせず、船長室の出口の扉へと向かう足を止めて、彼女の方を振り返っていた。
「……」
結・紫晶は何も言わない。表情は一切変わらず、
ギリリリリリ、ギュゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――
そのまま今度は足を絡め、胸に抱えるように、座曳の右手に文字通り、しがみつく。
そこには二人以外誰もいない。
二人の着ている衣服や髪は既に乾いているが、座曳の履いた靴は未だ湿り気を色濃く残しており、床に椅子からの軌跡をしっかり残している。二人が海から上がり、目を覚まして、この場面まで、せいぜい数時間しか経っていない。
二人がこうしている間も、外から絶え間なく聞こえてくる。
ワァアアアアアアアアア――
ほら、お前、後ろぉおおお!
カキィィンンン、ザスゥゥッゥゥウウウウ――
ガコン、ゴコン――
左舷方向、崩れたぁああ! 数人こっちへ配分頼む!
ギシャァァァアアアアアア――
ブゥオオンンン、ガッ、ブゥアアアアアアア――
戦いの音が遠く響き渡ってきている。未だ、何も、終わってはいない|。
「その行為は、正しくありません。意味がありません。価値がありません。分かるでしょう?」
そう、座曳は右腕にしがみついた彼女に、言い聞かせるかのように彼女の耳元に柔らかく囁く。だが、彼女はびくりともしない。頑なに、座曳が次の動きに移るのを拒絶している。自身が少しでも反応してしまうと、座曳がそうすると分かっているから。彼女は無表情、無機質であるかのようで、その心の内はその真逆。幼げな行為の裏には、相手を制する大人な駆け引き。それが彼女。躊躇せず、自身の最善と思うことを選ぶ。そういう意味では二人は実に似通っている。
だが、
ゴォォォン、ゴォォォン――
ギシャァアアアアアアア――
右前方! あれは相手せず、躱してやり過ごしてぇええ!
ブゥオオオオオオオオオオオ――
「これは唯の時間の浪費、人手の損失でしかありません」
彼にとってこの辺りが、公私混同を自身の中でごまかし切ることのできる境界である。捨てるつもりの命を拾って貰ったという、仲間たちへの恩がある。なら、彼らの為にその分お返しをしなくてはならない。そう考えるのが座曳という男だ。
だから、今ここで、彼女に割く時間はほぼない。それでもこうやって、問答無用で立ち去らないのは、彼女が自分が目を覚ますのを、自分の面倒を、ここで一人、みてくれていたから。
座曳という男は優しい。だが、それは外面上である。
今の状況にも、それを示す根拠がある。彼は彼女をいたわっていない。彼女に休むことを勧めるでもなく、まるで平静であるかのように対応している。彼女はある種の自殺の未遂。自身は彼女の死を防ごうと命を捨てるつもりで挑みこれまでの行いによって生き延びて、互いに未だ、体も心も多少なりとも弱っていることは確かなのに、そんなことにはまるで触れないのだから。
彼は、自身の天秤というものに杓子定規に従う者でしかない。命を掛けて助けた女にこのような対応をしていることこそが、座曳という男の抱える異常性である。それにほぼ全ての者が気付かない。明らかに気付いている人物は、船長と、この結・紫晶のみ。ケイトですら気付いていない。長くそれなりに濃く関わっているクーやポーですら微塵も気付いていない。
彼の、他者に関わるであろう行為を行うかどうかの基準というのは、相手からのありとあらゆる意識下無意識下の干渉と等価でしかない。彼は常に相手に与え過ぎることはなく、彼は相手から常に与えられ過ぎることはない。
フラット。それを維持するのが、彼の生き方、価値観なのだ。異質で歪な、価値観。自身一人で完結すること以外全て、均すかのように幸運を時に拒絶し、均すかのように過剰な不運は流す。彼にできる全力で。
だから、彼はほぼ全ての者から見て、理的でありつつも人間らしく感情的であり、彼の本質を知る一掴みにとっては、異質で異様な位に物事を割り切る秤のような生き様をした、幸運も不幸も、得も損も受け入れない、異常者である。
彼が船員たちを巻き込んでこのようなことをしたのは、このモンスターフィッシュ大量襲撃の後にある、今回彼が元・船長である島・海人の為にすることは、船員たち全てに対しても多大な貢献となるからだ。尚且つそれが、自身という存在が無ければ不可能なことであると座曳は理解しているからだ。
そうでなければ、彼は結・紫晶を断じて助けはしなかった。未来永劫に。
彼はそんな生き様を、自ら選ぶことなく、考えることなく、自身というものを意識したときから行っている。そういう風に作られたかのように、生きている。




