第百四十四話 策と意地で万全を以て今度は彼女を掬い上げる 後編
座曳は目を見開いた。追い越した際に見えた彼女。その表情は一瞬たりとも、人形のような素面のまま変わりはしなかったが、その目。諦念と憂いを籠もったその目が、ほんの一瞬光を宿し、それを払うようにまた闇に沈んだようであったのを、彼は見逃さなかった。
(君は未だ……、何もかもを諦めていた訳では無かったのですね。それでも諦めようとしている、と……。僕は、何処までも卑怯者ですね……。でも、だからこそ、)
バゥゥゥウウウウウウウ!
停止用に逆向きに付けておいた一部の【ジェット機関】を使いながら、彼女の真下で座曳は止まった。視界、遥か上方に見えた、海水面と大気の境界辺りの、血と泥の混じったような濁りと肉塊。それを確かに認識しつつも、座曳は、そこで起こっているであろうことに意識を向けはしない。これからやる、海上への脱出の為の経路の線を瞬時に引いた。
(最低でもこれ位はやり遂げなくてはなりません、よね)
ガシッ。
巨石の如く重みを吸った彼女を、下から抱えた。
(命に代えても、終わらせは、しません、から)
ブコォ、ボクブクブクボクブク。
【ジェット機関】の噴射によって、沈まず受け止め、一部の逆向きに取り付けていた【ジェット機関】の向きを逆にし、一気に、上へと抱えた彼女ごと、
ブコォ、ボクブクブクボクブク――
射出する。
(生きていてくれさえすれば、きっと、僕以外の誰かが、君の心を拾ってくれるでしょう……)
怖くない筈がない。その行為は、自身の死を確定されると知っているから。だが、座曳に恐怖はあっても、後悔はない。自分は成し遂げたのだ、と、彼女の頭髪をまさぐり、目的のものを掴み出し、島・海人が用意したもう一つの道具、島・海人の歯の一本を手にし、
パリッ、パァァァァ!
ぶつけ、砕いた。
(そう……。僕でなくても、構わないの、です……)
そして、
クブクブクボクブク――バシャァアアアアアアアア!
海上へ飛び出して、軋み激しく痛み始める関節と肺と、歪む視界と、霧散しそうな意識の中、座曳は最後の力を振り絞る。【ジェット機関】を全停止させ、彼女を守るようにしっかり抱え、着地のときを、待…―
ブゥオオオオオオオオオオオオオオオオオウウウウウウウウウウウウウウ――
最後に宙から船上の着地予測地点を見ておこうと視線を落としたところ、視界に入った光景に思わず座曳は目を大きく見開いた。一時的にだが、脳に血流が押し寄せる。かすれていく筈だった視界が、一気に鮮明になり、息苦しさすら、思わず忘れる。
一部の船員たちが、座曳たちを受け止める為に構えていた。そこには指揮に励んでいる筈のクーがいて。他の船員たちは、モンスターフィッシュを釣り上げて捕獲したり、纏めて気絶、時に殺害したりしており、誰一人として欠けはない。そして、何より驚くべきことだったのは、指示をしていたのは、クーでなくて、ポー。
(成程……。私以上に準備万端だった、という訳ですね……。)
座曳の想定よりもずっと上。多角的に見て、かの船長だけでなく、座曳すら欠けようともこの船は大丈夫なのだということ。座曳に縋り気味であったあの子供二人が実のところ自身の足でしっかり立っていられるような、立派な船員に既になっていたということ。
フゥオオオオオオオオ、ガッ、ギィィ、ゴロゴロゴロゴロ――、バスッ。
(じゃあ、後は、お任せしましょうか。今度は、言葉通りに)
予め頼んでいた通り、【ジェット機関】を取り外し、自身を放置して、結・紫晶の蘇生処理と潜水病の治癒行為を始めたクー含めた数人の船員たちの様子を見て、座曳は、もう目を閉じてしまってもいい、と素直に思った。
(彼女……を、間に合わせて……、いや……、その……心……配……は、無……用……です……ね……)
安堵しながら座曳は意識を手放した。




