第百四十三話 策と意地で万全を以て今度は彼女を掬い上げる 前編
ゴォォォォォ、ブコォ、
凍える、冥い海へ。予想していて、それどころか、半ば誘導までしておいて止めなかった、させた、彼女の投水。だからこそ座曳は先を急ぐ。
視界の先に見える彼女との距離はもう既に十数メートルはあり、光の弱さもあって、辛うじて見える程度。それでも見えているのは、彼女の瞑った目から漏れる紫色の光のお蔭だというのが何とも……。
水を足で蹴るだけに留まらず、予め用意しておいた策の一つである、腰に引っ掛けておいた、ウイングエラガントユニコーンフィッシュの【ジェット機関】の束を飛びこんで直ぐに作動させた。
ブゥ、ブゥ、ボクブク、ボクブクブクボク、ブゥゥ、ブゥウ、ブクッ――
始まろうとしている座曳の急速潜行。起動の為の数秒を、彼は有効に使う。憂いを不安を、雑念を消し、彼女へ集中するが為に。
知らなかった零下不凍の水の冷たさにも、上からは見えなかかった今しがたできたばかりの、船に向かって吸い寄せるような渦のような流れにも、動きを鈍らせることは微塵もしない。予めしておいた準備によってねじ伏せられる想定内だから、とほんの一瞬で自身に言い聞かせ、
(上のことは、頼みますよ、クーさん)
振り向かぬ代わりに心の中で呟くのだ。
唯、ひたすら、下を、前を、見て、進む。
上で今起こっていることにまるで背を向けるかのように。
そんな一見意味のないことですら、沈んでいく彼女に追いつくために全力の全力を注ぐには作用するから。全身全霊。目の前のそれだけに、全てを向けなくては、成すことはできないのだから。
予め、託しておいた。信じられる者に。前には無かったもの。だからこそ、今回は、挑める。彼女の呪いの解除に。たった一度しか挑戦の許されない機会に。
ボクブクブクボクブク――
ひたすら、下へ、潜っていく。まるで、石のような速度で沈む彼女を、追う。
海面に向かって仰向けで、だというのに目も開かず、空気の泡すら一切吐かず、目を閉じ、抵抗を放棄したかのように、死を受け入れているかのように、彼女は沈んでいく。体を大の字に広げて。
瞑った目の隙間から漏れる紫の光が、彼女が未だ生きているということを証明している。唇の色の変化がないことが、彼女が微塵も弱っていないことを示している。それは、彼女が儀式の為の生き餌、生贄として、その時が訪れる瞬間まで命を繋がせられるが為の仕様。
髪を纏っていた氷はすっかり解け切って、彼女の、長い長い髪はたゆたっている。小さな彼女を、頭部からその足元まで覆うような長さのそれらはたゆたっている。
紫色の鉱物のように鋭い毛先がハリメズミの針のように逆立ちたゆたっている。彼女の髪は、根元部分は普通の髪で、先端へ近づいていく程に細く細くなっていき、毛先数センチ程度の部分に鉱物で作った針を結合させたかのような、そんな形をしているのだ。
これでも、まだまし。その凡そ半分程は、先端の針部分が剥がれ落ちていたから。彼女の髪の氷。彼女の髪の針はそれを張り巡らせる役割もあった。それもあって砕けたということだ。
この儀式の行われるタイミングでなければ、その針は、彼女をぎっしり覆い、あらゆる他者を遠ざける。それは、彼女が贄として生まれた、作られた証であり、その時が来るまでは守られるように、誰も触れられないように、他者を遠ざける、孤独の帳。
彼女を下賜されることを予定されていた座曳だけがその理の外であったとはいえ、彼女の頭髪の奥、呪いの本体に触れることは許されていなかった。彼に許されていたのは下賜であって、それを愛することでは無かったから。それは、道具。使い捨ての贄。そう定義されていたから。
それには、かの家から出奔する以前に、慎重かつ大胆で賢き座曳が、手の打ちようがない、と判断せざるを得ない程に隙が無かった。
それを破ったのは、埒外の者の視点。島・海人が、座曳を動かすが為に用意した札。これまで、ずっと前から気付いていて言わずに抱えていた、伏せていた、恐らくは最低一度は札として切ることが可能な隷属に近い従属させるが為の札。
座曳のこれまで話していなかったことの全てを予め島・海人は知っていたかのように聞き、そして、極めて単純な解答を示した。それも、長年それを引き摺っていた座曳をあっさり納得させるような。
座曳の願いを叶える為の方法。命一度捨てさせて拾い上げるという、人の心の外の、異端の、思考。残り全てを捨てることとなっても、結果だけはがっしりと掴む為の方法。
だが、彼は、そんな島・海人の裏なんてどうでもよかった。それが答えであることは疑いようもなかったのだから。そして、その為に必要な二つの鍵も、用意されていたのだから。
(やはり、予想通りの仕組みですか……。専門家の意見でしたし、覚悟はしていましたが、それでもやはり……。いや! そういうのは後です!)
ボクブクブクボクブク――
座曳は彼女へとどんどん距離を詰めていくと共に、光は遠くなり、周囲の水の熱は失われていき、肺に苦しさを感じ始めていた。
(私など、どうなっても構わない。私には責がある。咎がある。だからこそ、やり遂げなければならないのです! 結。貴方に言わねばならないのです! 今度は、一緒に行こう、と貴方を掬い上げないといけないのです!)
座曳は知っている。潜水病という病の存在を。彼が後回しにしたのはそれである。旅立つ前、島・海人ににこの計画に穴は無いかと、それに必要な物資を座曳は要求していた。その結果、座曳が島・海人から渡された物品は二種。一つは、自身の腰に巻きつけた【ジェット機関】の束。そして、もう一つは――
ゴソッ。スラックスの後ろの蓋付きポケットに【ジェット機関】よりもずっと大切に入れておいた、爪の一手の為の品。座曳が白い岩のような凡そ一辺1センチ程度の、凸凹でありながらも丸みを帯びた、何か。




