第百四十二話 呼び水の儀式
不気味な静寂が続き、誰も動きはしない。空気は重々しいまま、膠着している。きっと、彼らは考えているのだ。つい今しがた座曳が口にした言葉の意味を、その顛末を、想像しているのだ。それでも彼らは動かない。動けないのではなく、動かない。
二人の間に深い絆があることは確か。どれ位かは知らないが、それは長い期間を置いた再開に至っても変わっていないらしい。言葉足らずにも、何やらの意図が行き交って分かり合っていることが、まるで二人は周りなんてもう見えていないのだと、分からせられていたのだから。
それに、その女性は見掛けとは違って、自身の意志を持ち、それに殉じようとしている。座曳は、普段のような豊富で頼りない感情の揺らぎなど見せず、らしくなくはっきりと、言い放った。ずっと前からこの日この時、そう言うのだ、ととっくに決意していたかのように。
周りは分かっているのだ。
止めても無駄だ、と。
クーとポーすら、それを悟り切っているようだった。納得はできていないのは顔に浮かべる年相応な感傷的な表情が明らかであったが、それでもクーもポーも、動きはしないだろう。互いに、互いを繋ぎとめるように、互いの裾を引きながら、唯、黙って動かない。目を背けず、もうそう遠くなく訪れるであろう、いよいよの時を、唯、待っている。
それが、座曳の心に致命的であろう、と誰もが分かっていても、彼の決めたことであるが故に、動かないのだ。
そして何より、こんな時代に、誰かを助けようと、身勝手に命を危険に晒す愚か者など、生きていやしない。愛する者であろうが、助けようとすることで共に危険に晒されることとなるなら、見捨てるのが、この時代の普通だ。ましてやここにいる筈などない。
「底の門をくぐるのは、ここにいる貴方たち」
誰に向けるでもなく、焦点が何処にも合わないその瞳と同じように、唯、一人語るように、彼女は踊る。音も立てず、たゆたう。
「機会は一度。貴方たち自身の重みを示さなくてはならない」
フワッ、スゥゥ。
座曳の正面に羽根舞い落ちるように降り立った彼女は、ほんの一瞬、彼を見て、すぐさま背を向け、
「二度は、無い」
そう言ったのが、きっと彼女がこの場で、座曳に向けてまともに心を声にした唯一。役目に重ね合わせて口にした、自らの心凍らせし、嘗て置いていかれた女性の、全て彼のことを分かっていたからこその、別れの言葉。
それでも、彼は、動かない。いや、動けない。動く訳には、いかなかった。未だ。
ブゥオオオオオオオ!
突如なり始めた風の音と共に、吹き流されるように、彼女の体は、船のへりの外。遥か上空。宙。彼らは見つめる。見上げる。何もできず、見ている。こうなっても、彼らの誰一人、何もしようとはしない。縛られていた。その異様な場に、儀式場に。
そして、その時がやってきたのだと示すかのように、まるで重さを思い出したかのように、揺らぐことを止め、真っ直ぐと、下へ、落下を始める。
「贄は、私」
上空数十メートルからもその声は、距離を無視するように響き渡るのだ。
スゥゥゥゥォォォオオオオオ、
雲が急速に動きはじめ、どんよりと黒ずんでいき、遠雷は、その姿を、距離を、何処までも詰めて、視界に赤く映る程に、
「験が降り下される」
ビリリリリィィイ、ガララララ、ガァァァンンンンンン!
未だ宙にいて、落ちていく最中の彼女を真っ直ぐ、
ガコォォォンンン、ガコォォン、ガコォォンンンン、
貫き、海に落ちた。数メートル程度の距離で目撃する、落ちる雷。その光の強さ、貫いた物質の抵抗により、それは、赤く、光る。
まるで宣言しているようだ。貫いたぞ、と。
彼女は、それでも苦しみの声を上げない。明らかに意識があり、目を開けて、しかしそれでも、黒煙と共に漂ってくる肉の灼ける臭いは、彼女が人間だったことを証明する。それに一切汚物の臭いが紛れて来ず、噴き出ておらず、そのことが、彼女が儀式の贄として、調製された存在であると示している。それでも砕けも解けもしない後部に纏めて下ろした氷の髪が、否定することすらさせてはくれないのだ。
それどころか、
「印は……捺され……た」
低く枯れたささくれた変わり果てた無残な声で、もうまともに動きはしない喉で、
「こ……の贄と……機会、無駄にせぬよぉでぃ」
そうしてきっと、声の源は、砕けるようにひしゃげたのだろう。
その儀式の始まりの成立の形。それは彼女がそうして最後に、海に、
ザバァァンンンン!
沈んだ。雷に打たれながら叩きつけられ、そうなるまで、一切の声も苦悩の表情も、浮かべやしなかった。
ビシッ、ビシバシピキピキピキペキ、ガララララロロロロンンンン!
そんなもの何処にも見えない、厚い厚い氷と、
パリィィィンンンンンン!
彼女の氷の髪砕ける、音が遅れて響き渡った。
(来た! 今しか、無い!)
その途端、座曳は、彼女を追いかけるように、
トッ、タッ、タッ、タタタ、トンッ!
一気に駆け跳ね、その身を、船の外へ。
それは、作り出された極寒の海。それは、霧の海。それは、紫電打ち付ける海。それは、波暴れる海。それは、風止まぬ海。だが、
(初動のアレを防ぐ手立てを僕は見つけられなかった。あの船長と旅しても、手掛かり一つ、得られなかった。僕は拘った。完璧を。君の無傷を。だけど、僕はこれまでの旅で実は気付いていた。何もせずに、できずに終わること。きっとそれを、僕は一番恐れていた、と。だからこれは、チャンスだ。君の心に傷つけようとも、君の身を危険に晒すしても、傷を確定的に負わせることになろうとも、少なくとも、君の命を、君の人生を、僕の為の無為にしなくて済む術は、ある。僕さえ、逃げなければ。あのときさえ、逃げずにいられたら……そのチャンスはもっと早く、訪れていたかも知れない。……知っているさ。チャンスは一度。知っているさ。だから、怖かった。踏み出せなかった。けれど、今の僕には、鍵がある。旅を通じ、僕は一流になった。だから人ならざる気配持つ君の心が、初めて、見えたんだ。その叫びが、その苦悩が、決して届き得なかった、意思が!)
ゥゥウウウウウウ、ザバァァンンンン!
彼に、後悔は無かった。
(鍵は、今、揃った。後はやるだけだ)
他の者たちは、二人のそんな遣り取りよりも、
ォォォォォォォォォォォォォォォォ――
不気味に響き始めた海鳴りに、臨戦態勢になる。何が起こるか、彼らはもう、理解した。既に準備できている者は竿を握り、未だの者はせわしなく動き出し、
そう。狩るか狩られるかの、命懸けが、始まる。




