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モンスターフィッシュ  作者: 鯣 肴
第二部 第二章 苔生す嵐
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第百四十一話 闇宿りし凍てつく氷の眼

 それは、焦点の合わない濁った紫色の虹彩の遠い目をした、子柄で、少女……、いや、幼女とも見紛うような()()だった。光の屈折でその像が大きく見えていただけなのだ。


 そして、それは少女でも幼女でも決してないと言える。その立ち振る舞いが、重く漂う雰囲気が、そう告げていた。


「お帰りなさい、座曳。いつかこうなるって、分かっていたわ」


 青紫色の唇が動き、そう発した。綺麗に澄んだそよ風のようなソプラノの声で、その幼女のような女性は、一切の抑揚なく、本の台詞でも棒読みするように、気持ちの一切感じられない唯の音でしかない言葉を座曳に向かって口にしたのだ。それは、不自然に何処までも響き渡る。


 そのやけに光沢のある首から下をすっぽり覆い、腰当たりから地面すれすれまで広がっていきながら垂れ下がっている、まるでローブのような灰白色のスカートの下から足音は聞こえない。スカートが風を含んでたゆたったことから、彼女が動いたことが分かっただけ。数歩、小さく、その場を数歩分の小さな輪を描くようにくるりと歩いただけ。


 それには不自然な位に音がない。その目は何も捉えないように見えて、何もかも全て、見通して遠望しているかのようで……。


 先ほどその幼女のような女性に刃を向けようとしてしまった船員たちは、一同に大きく距離を取っていた。その顔色は酷く悪い。警戒の度合いを上げたのだ。明らかに危険である、と認識したのだ。そういうところで、彼らは間違うことはない。青白く、霜が掛かったかのような皮膚には傷一つなく、それが更にその女性を不気味に見せる。


「そして、御利巧様ね、貴方たち。座曳の手足として、存分に役立つことでしょう」


 それに反応し、船員たちは、とうとう怯えを隠せなくなり、構えた手が震え始めていた。彼らは決して、寒さで鈍る程にひ弱である筈がないのに……。だからその、いつの間にか甲板に出てきた他の船員たちが、クーとポー以外、甲板に向かって一歩も踏み出せなかった。そして、クーとポーですら、数歩が限界。そこから、膝を落とし、床にひれ伏すことはなかったが、もう一歩も進めなかった。彼女の纏う、畏怖の強度を物語っている。敵意を向けられている訳ではないと、誰も彼もが分かっていながら、そのざまなのだ。


 彼らの専門は、あくまでモンスターフィッシュ。()()した人間に相対する術は知りはしないのだ。


 無邪気さなんて、微塵もない。答えが帰ってくることに期待などしていないのだ。唯、言っただけ。その女性にとっては、それだけだったのだ。その、青く半透明な後ろ髪を連なる氷柱のように背から腰に掛けて固め垂らしたその女性は、見た目と言動の示す通り、刃のように鋭く、冷たく、誰にも心開いていないというだけのこと。


 そして、その例外は、その様子に悲しそうにも懐かしさを感じているようでいて、結局その女性に向けて何も言わないのだから。


 いつの間にか聞こえなくなった波の音、風の音、船の音。その女性の領域に呑まれているそれにここにいる者たちはきっと、気付く余裕すら無いのだ。そう。この男以外は。


 キュッ、スルッ。


 回る、音。裸足が、木の甲板と擦れ、一部布地と擦れ、鳴った音。まるで、舞うように、


 スルッ、スルッ、キュッ。


 女性は、回った。全くその軸をぶらすことなく。そして、座曳に向かって、真正面に立たず、元の、座曳の斜め後ろに侍るように立ち、座曳の裾を、その紫色の接着面から出た漆黒の爪を立てるように掴み、引き寄せ、抱きしめ、体を預けるようにしながら、言うのだ。


「座曳。私に言うことがあるでしょう」


 気付けば、座曳の首に頭に、正面から足を開いて、座曳の両肩に体を預け、座曳の頭を包み込むように両腿で、腹で、胸で、両の手で、抱え込むようにして、耳元で呟いたのだ。その大きな目を横長くも未だ大きく細め、その凍った睫毛を瞑るように、小さくも、何処までも響き渡る声で、平坦な口調で、言うのだ。


 座曳の姿勢の一切のぐらつきの無さからして、きっと、その女性には、重さが、限りなく無いのだろう。


 そして、次の瞬間には、その小柄な女性は、座曳の後ろに控えるように立って、音が無くなりつつも光続けている遠雷を見渡していた。






 ガタッ、……カタッ、……、バタッ、……、カタッ。


「座曳()()。いつまで、こうしている、つもり、ですか……」


 そう言ったのは、クー。その金色の毛並みのよい髪の毛が、酷く汚く乱れつつも、彼は何処までも彼だった。妹であるポーの前に、風避けとして、立ちつつも、そう、意味ある虚勢を張ってみせたのだから。


(船長、か。そうだな。僕は今、そういう立場なんだ。ここまで来て、過去に怯えている訳にもいかない。今度は、僕は、逃げないよ、ゆい)


 スッ。


 座曳は、口を開き、こう言った。


ゆい紫晶ししょう。君がこうして僕の前に現れたということは、未だ、終わりはなっていないってこと。それで合っているかい?」


 座曳は微笑まない。いつものような柔らかな言葉は、暖かな色を含まない。それは、威圧的であった。それは、冷徹であった。何故か。


 それは、


「では、役目を果たし、扉開く贄となれ」


 確かに座曳の口から出た、明らかに零下な言葉。鋭く刺す言葉。口にする側もされた側も共に串差す、座曳が最も嫌う二つの言葉。


 役目と贄。


 必死に拒んできた二つのこと。逃げ続けてきた二つのこと。ここに来るにあたって、前者は満たした。そして、後者を、今、果たそうとしている。


 きっと、その目が一瞬浮かべた、僅かな光が一瞬にして闇に沈んだのを見落とさなかったのは座曳だけ。そして、そんな座曳がそれを拒絶したのだから、もう、きっと、その女性は救われない。


 これから起こることは仄暗い闇の泥の底に、息もできず、沈めるような、救いようもないことだと、誰もが説明無くとも理解した。

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