第百四十話 曇天の天蓋、白霧と遠雷の海域へ
座曳もまた、大きなものを抱えている。それは、船長やリールやシュトーレンのものとも、見劣りしない、大きくて重いもの。一度逃げた彼は、一体どうして、逃げた場所へ再び足を踏み入れたのか。捨てた愛する者と遭遇し、何を思うのか。
座曳が船長やケイトに通信を試みた少し前の時間から、座曳たちの側の話は動き出す。
船長たちのいる海域の遥か西。嘗て、アルプスと呼ばれた山々がそびえ立っていた今は唯の一面の海でしかない海域へと進入しようとしていた。それは、曇天の天蓋を持つ、白い霧の領域だった。時折、その領域内遠方で光っているような雷が、まるで近づくことを警告しているかのようにも見える。
まるで隔離されているような、そこだけ一続きの海ではないような、そんな風に。
中央マスト頂上の物見の場から、そこに備えつけられているウェイブスピーカーで座曳が宣言する。
「どう見ても危険に見えるでしょうが、それは虚仮脅しです。予め述べた通り、大丈夫ですから、進路は変えないでくださいよ! それと、防寒具の準備はできていますか?」
(予め言っておいたことですが、必要ですからね、こういう確認というのが。船長、私にはやはり身が重いですよ……。貴方のように、唯口にするだけで皆を納得させるに、私では足らないのですから……。ですが、)
「分かってんよぉ、眼鏡ぇぇ!」
「お前が言うんなら、そうなんだって、俺たちゃ、分かってるさぁぁ!」
「茶髪眼鏡ぇぇ、あんたこそそれで防寒大丈夫なのぉぉ!」
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下からちょくちょく何人かの船員が、座曳を元気付ける。支えてやること、自信を付けさせてやることの重要性を、彼らは知っているのだ。そして、彼らがそうする何よりの理由は、座曳が、そうするだけの価値がある、と思っているからである。育てる価値、彼が上の者と従う価値がある、と。
船内には、クーとポーという、元々割と座曳に懐いている二人(荒々しさが皆無で知的で同等の育ちの良さを感じることろが原因らしいと座曳は分析している)がいて、あの愛らしく美しい子供二人が積極的に働きかけてくれているので全く問題はない。
だが、そもそも、座曳の心配は杞憂だ。彼は、認められている。受け入れられている。彼以上に、船長が務まる人物はいないのだから。
曲者揃いな彼らが、事前の相談も、そういう素振りも無しに、代理の船長を座曳にされて、船長がこの船には乗らず、船長たちよりも数ヶ月程度早くに彼らをひっそりと出発させたというのに、誰も彼もが、座曳の不安など唯の杞憂だと言わんばかりに素直に従うどころか、支えようとすらするのだから。
そして、それには、尤もな理由が、現実が、ある。
東京フロートから出発してからの数ヶ月、港で停泊し、何処かしらの町に滞在している時以外に、一切のモンスターフィッシュからの襲撃を受けていないのだから。
これはまずあり得ないことだ。日本の近海は、どういう訳か、モンスターフィッシュに必ずしも襲われることなく、船で物流を回すことくらいは命を掛ければ運が良ければできない訳ではない。
だが、日本の外は別。正確には、日本近海から外海に出ていこうとした場合や、何とかして外海から日本へと向かう場合。海溝と呼ばれた、深淵へと繋がっているかというような深い深い海の谷、若しくは崖。それのせいで、どうしようもなく、難易度は上がっている。
モンスターフィッシュの分布というのは、開けた海かつ、深い海、そして、そうであった期間が長ければ長い場所程、多く、危険度は高い。そうなっている。
未だ、人類がどうしようもなく、その文明を後退させ、嘗ての文明の利器の数々がオーハーツになり、先端技術の数々が技術のミッシングリンクと成り果てる前、モンスターフィッシュに屈して、大半が陸地に引き篭もるようになる前、そういった調査が、数多の血の代償によって、行われ、判明し、伝播させた事実だ。
それは今であっても変わらないことが、各地の釣人協会の働きによって明らかであると皮肉にも証明され続けている。
"日本支部は、海外の支部との交友を持たない。"
それが、もう、日本近海から外海へ出ることへの絶望的難易度を物語っていた。どうしようもないのだ。喩え、どれだけモンスターフィッシャーとして優れた釣り・狩りの能力を持っていたとして、どうやって、センカンソシャクブナの群れとやり合うことができる? 当然、無理だ。
一体二体なら、辛うじてやり過ごすことができても、それらが、群れを成していて、それに加え、こちらを明確に狙って襲ってくるとあらば、どうしようもない。
モンスターフィッシュとして規格外な元船長である島海人は、そういったものを察知し、まるで未来視でもやってみせているかのような躱しを透かしをやってのける。だから、これまで、座曳の出番は無かった。どう足掻いても避けられはしない突発的な事故のような遭遇にすら、反応できるそのような元船長がいたのだから、自分の本来の特性は発揮する必要はないのだ、と、自身に足りないと分かっていた指揮系統と、個人的な釣りと狩りの能力を磨くことに邁進していた。
だから、座曳の凄さを目にすることになったのは、船員たちはこれが初めてであった。そしてそれが、元船長のそれに劣るどころか、上を行く、とんでもなさを持っていたのだから。
元船長ですら、これだけ長期間、数か月の航海において、海上で、一切のモンスターフィッシュの群れや、脅威的なモンスターフィッシュの個体に襲われなかったなんてことは一度も無かったのだから。
そして、元船長は、それを何故だかは分からないが知っていたか、その花開いた指揮能力を理由にしてか、座曳を船長にしたということだ。確信的であろうが、偶々の期待以上であろうが、それが、座曳の実力そのものであると疑いようもなかった船員一同は、当然のように彼を立てたまでのことである。
遺失技術の一つとなった航海術。それを失われる時代前の水準でも、一流の中の一流の域で生きた技術として保持していた彼に、そんなこと、他愛もなかった。
何故そこまで優れていて、彼がそれを振るわなかったかの最も大きな理由は、彼が、自身に自身を持てない類の人間だったからに他ならない。それを振るい、誰かが死んだら、背負い切れるのか、分からなかったから。
彼は、最初、逃げるようにして、縋りつくようにして、何処かの港町で、何もかも捨てて、海人の船に乗ったのだから。地図が読めることから、海人は彼を船に乗せたが、彼の価値はそこには一部しかなかった。彼の本当の価値は、千年を超える蓄積された航海の術の結晶を、余すことなく知り尽くし、それらをこの現在の、どうしようもなく予測不能な筈の海で、使える形として出力していることだ。
そして、この地点で、そんな価値を知る者は、座曳を含め、いない。
船の先端が、その霧へ接触し、気圧の差か、空気の寒暖差による流れか、船はどんどんとその中に吸い込まれていく。
晴れ空が終わり、突如白く薄黒い雲と、冷淡な霧に覆われ、何処からともなく船上甲板、背後に現れた女性に、座曳は気付き、振り向いた。
それと同時に、他の船員たちの接近の気配を感じた座曳は、その女性の懐かしさに、感傷に浸る暇すらなく、
「止めてください!」
そう叫んだ。
ピタリ。
霧の中の動きは止まった。手に汗握った座曳は、残った息を吐き、大きく吸って、今度は、大きな声ではあるが叫びはせずに、いつもの調子で言った。
「彼女はこの海域の渡し守のようなものです。そして、私の、元・婚約者でもあります。つまりどうやら、私たちは、歓迎されていない訳ではないということでしょう。遠回りする必要は無くなったようです」
そこには、座曳の一歩後ろに控えるように立つ、背の高くほっそりした女性のシルエットが浮かんでいた。
ブゥオオオオオオオ――
一際強い風が吹く。そして、その発生源は、その、女性。船上の霧が、その女性に向かって吸い込まれるように消えていき、その姿を、現す!




