---020/XXX--- 三者三様嗚咽の涙 後編
少年はあの部屋にいた。再び惨劇が起こってしまったあの部屋に。魚臭い透明な血液にまみれ、力なく、壁にもたれかかっていた。
少年の後ろ。壁の向こうには、ばらばらにばらされた、少年に穴を開け、リールの右腕を奪った魚人が、ただの肉塊になって転がっていた。
少年は、シュトーレンに運びだされた後、霞む意識の中、朧げに覚醒し、ここへと、誘われるように歩いてきて、事を成したのだ。
そう。少年は、あのとき、辛うじて意識を保っていた。取り乱していたリールはそのことに気付かなかった。シュトーレンはモニター越しから見た映像ではそのことに気付かなかった。
見ていたのだ、少年は。一部始終を。
少年は涙を流していた。死んだ目で、声一つ上げず、止まらない涙を流していた。
(……)
少年の頭の中には、何も、なかった。真っ白だった……。
それから、かなりの時間が経過して……。
「ポンちゃんっ!!」
(ああ、リールお姉……ちゃん……)
少年はそれに意識は反応したが、体はついてこなかった。壁に持たれて、光を失った目で俯いたまま、顔を上げることすらできなかった。
駆け寄るリール。
そして、少年と少年の向かい側に広がる惨状を見て、何が起こったのかリールは悟った。
(この子、全部……、ぅぅ)
「あああああぁぁぁあぁぁぁ」
呻くように、叫ぶように、リールは崩れ落ちるように少年に覆いかぶさり、反応の無い少年を抱き寄せ、包み、子供のように泣くのだった。
少年には、リールの声が、表情が、見えていなかったわけではない。全て見ていた。その瞳で見なくとも、見ていた。心の瞳で見ていた。
少年に聞こえるリールの声は遠かった。まるで、硝子越しに聞いているかのように、高く反響し、聞こえる声。
そして、声を出しても、届かない。まるで、手の届かない幻の中。ただ、見ているだけしかできない。
だが、それでも。
熱は感じた。包み込むような、暖かい熱。冷え切った心に、日が差したような気がした。いつまでもそれにただ、浸っていたい。少年は、そう思いつつ、静かに目を閉じた。
「シュトーレン、聞こえている? 貴方今何処にいるの?」
リールは大きな声で叫んでいた。なぜなら、少年は目を閉じたまま、一向に起き上がる気配を見せなかったからだ。
やけに呼吸が深い。
そのことにリールは疑問を感じていた。リールは少年が寝ているときの呼吸のリズムを知っている。少し前は、毎日のように傍で聞いていたのだから。
だから、引っかかった。
何か、おかしい、と。
そこで、シュトーレンに訊ねることにしたのだ。シュトーレンはきっと、管制できるところで、ここの映像を見つつ、自身のやるべきことをしているに違いない。シュトーレンならきっと、そう動くと読んで。
そして、シュトーレンなら、この少年の異変について何か知っている。そう感じ取っていたから。
時間が経過していることもあり、リールは少しずつ冷静さを取り戻してはいた。自身が先走ってこんなことになったのだから。
自身の義足と、先ほどよりもさらに呼吸が深くゆっくりになっている少年を見て、自身の愚かさを悔いる。先ほどの、少年の、光を失った目を思い出す。自分のせいでそうしてしまった。
そうリールは自責する。それでもリールは自傷しなかった。そんなことをする資格など今の自分には無い、そう思っているから。
自身の代わりに、少年が自傷したようなもの。そうリールは感じ取った。そして、それは至極その通りなのだから。
シュトーレンはリールが大声でカメラ越しに声をかけてくる前からその部屋の様子を見ていた。だが、リールの声に反応を返さないでいた。いや、返せないでいた。
(どうして、こんなことになっている……)
シュトーレンは崩れ落ちつつ、両手でしがみつくようにモニターにかじりつき、部屋の様子を移すモニターを見ていた。
何故なら――
【魚人型変異成功型 経過報告 ■年○月△日】
【同胞の血液による、情報の共有機能の保持を確認。7日前確認され、認定された、復讐機構の保持も踏まえると、危険度は跳ねあがる。現生人類の幼児並みの学習記憶スペックを保持しつつ、同胞の死から必ず叡智を得、集団で行動することを知っている。魚人変異成功型は直ちに同時に処分すべきである。我々の手に負えるものではない。】
【■年○月×日 追記】
【その提案を承認する。先日追加された報告、同胞の死の遠隔での認知機構の保持も踏まえて、直ちに同時に処分すること。】
【■年○月▽日 全個体を命令通り処分した。とはいえ、あれらの卵まで全て処分できたかどうかは分からない。暫くは、警戒を厳にすべし。】
すぐ傍の床に散らばっている数枚の断片資料。そこに、リールと少年を襲った魚人についての情報が記されていたのだから。
少年たちを襲った魚人のうちまだ二匹は捕まっていない。シュトーレンが仕掛けた罠に掛かったのは一匹。あの場所に一匹しかいなかったのだから。
(あとの二匹、どうやって逃れた……。そして、今、何処に……。不味い不味い不味い。)
日付が暗号化された資料であったが、法則性があったので、これらが一連の流れを示す資料であることがシュトーレンには分かっていた。
次の襲撃がいつ起こってもおかしくないのだ。
シュトーレンはそれを悟り、回線を繋いで大声で叫んだ。
「リール、ポン君を担いで、今すぐそこから離れろぉぉ」




