第十五話 巨影の幻魚
少年は、チェッカーの画面を見る。先ほどドクターに追加でもらったのだ。チェッカーをこの場で持っているのは、少年と座曳の二人のみ。全員に操作法を説明する時間がなかったからである。
点。画面は船長と見たときよりも明らかに点で真っ黒だった。大量の点が密集しており、まるで一つの大きな点になっているようにも見える。少年は唾を飲み、溢れる汗を手で拭う。
「……大丈夫?」
少し震えた声で。明らかに自身も不安に囚われているというのに、なんとか少年に声を掛けるリール。少年は、答えず、頷くのみ。
第二群。船長が斃した分だけではなかった。まだまだ居たのだ。今が産卵期であることがここで確定してしまった。
ピラニアたちの攻撃の手が緩むことはなかった。微かに期待していた、船長の攻撃による人間への恐れは見られない。ジェット小舟への恐れも抱いていないようである。ナイフへの警戒心も現在のところ見られない。あれば少年たちが接近したら逃げるだろうが、その様子も見られない。
『おっさんが行った餌ブロックでの作戦は悪手だったかも知れんなあ。産卵のための栄養を与えてしまった。おっさんは、餌ブロックを囮に使ってナイフでさくさくと戦闘員を殲滅する予定だった。そして、俺がおっさんを担いだときには、海岸にあったブロックの山はほぼなくなっていたよなあ。』
少年は更に頭を回転させる。
『餌ブロックへの警戒心はもうできているんか? できていたら、このブロックは敵避けの壁に使える。できていなくても、毒として作用する。このまま進むか。』
少年の舟が飛び出すとともに、他の舟はそれを中心として扇状に広がっていき、ピラニア殲滅兼巣探しを続行する。少年の真後ろの位置には、の船。
ちょうちんで船底の窓を照らすと、海中の様子がよく見える。チェッカーでは、巣にいる雌の反応までは出ないため、目視で探すほかはない。
早く見つけて叩く必要があった。さもなければ、ピラニアたちは、増え続け、襲ってくるのだから。
きついのは少年たちの方だけではない。ピラニアたちは同胞をひたすら殺され続けているのだ。彼らはそのことに対して、恐怖ではなく危機を感じているだろう。
それでもピラニアたちは戦う。長と共に。外敵を完全に沈黙させるか、自分たちが殲滅されるまで。
他の船員たちもそのことを感じ取っている。自然と分かる。皆、大物狩りに勤しんできた、歴戦の釣り人であり、狩人なのだから。
画面に映る黒の塊は、次第に散っていく。それを見た少年は叫んだ。
「みんな、ピラニアどもを根絶やしにするでええええ! まずは、こっち向かってきてるやつらから返り討ちにしたれええ!!!」
右手を握り、かざし、船の上で立つ少年。高揚。
手の震えが止まらなくともナイフを握る者。額に皺を寄せ、ナイフを振り下ろす者。船底の窓を瞬きせず汗とともに覗く者。気持ちを押し殺し、冷静に周囲を観察する者。口から出そうな恐怖を片手で抑え込み、ちょうちんで影を集める者。
誰もが自身の心と戦っている。だからこそ少年はその背中を押すのだ。
戦いは続く。どれほど時間が経っているかは分からない。少年たちはドクターと打ち合わせをしておき、あらかじめ日が落ちないようにしてもらっていたのだ。
暗闇の中では、視界が狭くなる。ちょうちんの照らす範囲。そこだけだ。そうなると、ピラニアたちによる蹂躙が始まってしまうのだから。
常に昼、狩人たちに不利はない。昼が続く。この戦いが終わるまでは。
毒の餌壁はその効果を遺憾なく発揮していた。次々と各船へと突進し、めりこんでいくピラニアたち。
しかし、皆、顔に疲労が見えていた。いつ終わるか、どれだけの時間戦い続けているか検討がつかないのだから。心も疲労する。警戒心は薄れ、そして――
左舷の一番端の小舟が突然転覆する。その舟の毒餌の壁は全て崩れ去っており、二人の船員は水中で恐怖に震えている。そばを漂う異様な量の黒い影。まるで、巨大な魚の影のよう……。
そして、大量のコロニーピラニアが二人を攻撃しようとする。
そのことに真っ先に気づいたのは、全体を見渡しながらたまに指示を飛ばしていた座曳だった。
「ちょうちんを。ちょうちんを握りつぶすんです。早く!」
座曳の声に反応した二人は、即座にそれを握り潰す。
ピカアアアアアアアア、
ドオオオオオオオオオオオオオオォォン。
二つ分。水中で炸裂した。その衝撃で二人は気絶する。ピラニアたちを巻き込んで。
座曳の声を聞いて、目を伏せ、耳を塞いでいた他の船員たちはなんとか耐え切り、気絶した二人を回収した。
少年は顔を青くする。震えと涙。目からは光が失われていく。フラッシュバック。船長のときのことが少年の頭の中で再生されていたのだ。
「う……」
がしっ。
ぎゅううぅぅ。
叫ぼうとした少年を抱きしめるリール。胸元で少年を包むように、抱えるように体を丸める。
「大丈夫だから……、ねっ。」
自身も目を閉じ、咽び泣きそうになりながらも必死の思いで少年にそう声をかける。
彼女にも当然フラッシュバックはある。少年の最も近くで、つまり、二番目に近いところで船長がピラニアたちに襲われているのを見ていたのだから。
しかし、彼女はそれでも、恐怖を押さえ込んででも少年にそうしなくてはと強く思ってしまった。少年は、まだ子供である。どれだけ大人びて見えても。その心はまごうことなき子供なのだから。
耐えられない恐怖。それを感じると磨いた理性ごと容易に崩れ落ちる。そう、子供なのだ、少年は理論武装した子供。
誰かがそういうときのために傍にいる必要がある。これまではいなかった。しかし今、その役割をリールが担った。
彼女は強く思う。傍にいると彼に伝わらないといけない。そして、安心させなくてはいけない。その怖れは現実にはならないと。大丈夫だと。
「みなさん、どうやら、ピラニアたちは私たちの誰かを集中して狙って墜とすつもりのようです。」
座曳はピラニアたちの動きの変化にいち早く気づいた。ピラニアたちが自分たちの様子を見て作戦を立て始めたということに。
できるだけ落ち着いて、しかし大きな声で座曳は言葉を続ける。自身の右手を、拳を、血が滲むまで握りしめつつも。
「疲れているのは分かってます。私もそうですから。しかし、お願いします。自分の周囲だけでいいです。ですから、壁から頭を出してでも周囲を確認してください。二人のうちの一人が見て、その間はもう一人が守る。それでなんとかなるはずです。」
仲間たちにそう指示するのだった。皆に疲れがはっきりと見えているからである。
船員たちの頭からは、このような基本的なことすら頭から消えており、自身の周りしか見えなくなっていたのだ。
だから、座曳は指示する。そうすれば、歴戦の彼らなら意識できると信じて。
座曳自身も焦っていた。ピラニアたちが作戦を立てて、計画的に襲ってきた。こちらは有効な打開策が見つかっていない。そのため、次の手が打てないのである。このままでは、やがて体力が保たず、負けると分かっていたのだ。
「戻りたいですね、できることなら。そして、なかったことにしたいですね。」
座曳はそんな弱音をひっそりと呟き、海岸を見ると――
「おい、東の海岸でなんかやってるみたいだぞ。」
「え、なになに?」
「あれもしかして、あの大きな船に乗ってきた人たちじゃないの?」
「なにやってるんだろう?」
「おい、お前、東の海岸来てみろよ!」
町の人々は東の海岸で起こる異変に気づき始め、続々とそこへ集結してきていたのだ。ただの好奇心、心配、祭り騒ぎの気配、などなど、理由は様々。
そんな中、海岸から見つめる人々のうちの一人の男がふと気づく。
「おい、あれ遊んでるわけでも祭りのわけでもなさそうだぞ……。」
望遠レンズを持ち、小舟の方を見るまた別の男。みるみる顔が真っ青になっていく。
「ああああああああああああああああああああああああああああっっっっ……」
長い叫びの後に沈黙し、望遠レンズを持ったまま崩れ落ちる。周囲にいた女がその男からレンズを取り上げる。
「どうしたって言うのよ、なんか怖いものでも……、いやああああああああああああああああああああああああああああああ!」
叫んだ後に、女は気絶した。集ってきていた人々はざわめく。更に別の男がレンズを取る。
「ただ事じゃあなさそうだな。どれどれ……」
その男は倒れはせず、固まりもしなかった。しかし、血の気が失せた顔でぼそぼそと。
「…………。」
野次馬たちが聞き返す。
「おい、聞こえないぞ!」
「……ニア……」
「ニア? ニアってなんだよ」
野次馬の聞き返しと、自身が見たもの。耐えられなくなった男は泣き叫ぶような声で自身の身に降りかかった災いの名を言う。
「ピラニア、ピラニア、コロニーピラニアだよおあああああああ、あのモンスターフィッシュのなあああああっ。終わりだ、俺たちはもう終わりだ……。ここに逃げ場なんてない。うわああああああああああああああああああああああああああああああああ」
両膝をつき、顔を下げて……放心。野次馬たちは阿鼻叫喚の嵐となった。




